2008年07月14日

俺をめぐる争いことば

常用漢字改訂、「俺」で大モメ(スポーツ報知- Yahoo!ニュース)


 文化審議会漢字小委員会の常用漢字表改定作業が、来年2月の最終案作成に向け大詰めに入る。現在の1945字からどれだけ増やすかが焦点。第2次追加案に残った188字の中では意見の隔たりが大きい漢字もあり、絞り込みには、まだ曲折がありそうだ。特にもめているのが「俺」という漢字。普段の生活ではごく普通に使われているこの字も「子どもに教えるべきものか」などとの意見もあり、結論は先送りされている。


このニュース、掲示板やブログ等を見ると曲解・誤解している人も少なくないようなので簡単におさらいしておくと、

「俺」という漢字はそもそも現在常用漢字ではない
・今度常用漢字を増やすにあたって、その中に入れるかどうかの候補の絞り込みの段階で議論されている

のであって、

・常用漢字から「俺」を外すという話ではない
・現在より「俺」という字の扱いが悪くなるということでは(多分)なく、いわゆる「言葉狩り」と同列に論じるには早い段階

ということ。

まず常用漢字とは何か、を確認してみると

1.  この表は,法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである。
2.  この表は,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
3.  この表は,固有名詞を対象とするものではない。
4.  この表は,過去の著作や文書における漢字使用を否定するものではない。
5.  この表の運用に当たつては,個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。

常用漢字表 まえがき


というわけで、あくまで「目安」であり、現在厳密に関わってくるのは法令や公文書など。どの程度準拠するかは出版社や放送局個々の判断に任せられている。
実際には新聞やテレビニュースのテロップや見出しなどが比較的忠実な例であり、よく目にする
「破たん」「隠ぺい」
などの一部ひらがな表記(「まぜ書き」)は、常用漢字準拠の産物である。
(厳密に言えば、常用漢字を元に作られた「新聞漢字」というガイドラインがあり、それに準拠した結果。)
(個人的には、この「まぜ書き」の多用は、常用漢字外の文字(綻・蔽など)が目にすら入らないことで、日本人の漢字力を爆下げしているような気がするのだがそれはそれとして…)

また、常用漢字表は漢字そのものだけでなく、採用された漢字についての音訓読みも規定しているので、ルビや表記に及ぼす影響も大きい。
以前書いたように、小学館が自社漫画作品のルビにおいて
「私」→「○わたくし/×わたし」
「博士」→「○はくし/×はかせ」
のように、雰囲気や文脈・キャラクターを無視して統一していた(今もそうなのかは最近少年サンデーコミックスとか買ってないのでよく分からないのです;お手持ちの方のフォローをいただければ幸いです)のも、常用漢字表の読みに忠実だったためと考えられている。
一方、これは一般向けの雑誌や書籍の中でもそうなのだけども、ごく日常的な表記において常用漢字表に従った表記を要求されることが多い。

たとえば、
「江戸の女達」
という表記をした場合、校正等で
「江戸の女たち
に直されてきたりする。

これは、常用漢字表内で定められた「達」の読み方が「タツ(音読み)」のみで、「たち」という訓読みが入っていないため。
備考において「友達」の用法が認められているために「友達[ダチ]」と書くのはOKなのだが、複数・多数を表す「達[タチ]」は既定外の読みとされるというわけだ。
(こうした裁量は出版社ごとに定められるもので一律ではないが、過去に一度だけライターの仕事をさせていただいた時には、この手の表記がゴッソリと校正にひっかかってきて、「ああ、そういうもんなのね…」としみじみ気付かされたのだった)

このように、明確な強制力はないものの、意外とこまごましたところに影響を及ぼすのが常用漢字表である。

現在、「俺」という漢字は小説や随筆などでごく普通に用いられているのだが、言われてみれば少年誌などでは圧倒的に「オレ」「おれ」表記が多いことに気付く。
作家からしてみれば、一人称の使い分けはキャラクターの描写の基本中の基本であり、また同じ「おれ」でも、「俺」「オレ」「おれ」と表記ごとに微妙に異なるニュアンスを使い分けることも珍しくはない。
だから結局は、出版物の対象年齢や発表媒体の違い、著者の表現意図を出版社側がどうすり合わせて、「俺」の使用をOKとするかNGとするかの判断をするかということになるのだろうか。
常用漢字表外の現在がこういう形であれば、今回候補から外れたからと言って、「今後"俺"という字が出版物から消える」というような事態を招くわけではない。


このニュースを読んで反感を覚えるとすれば、なぜ常用漢字候補を考える時点で教育的観点までも持ち出すのか、そもそもこうした場に加わる専門家でありながら、教育漢字と常用漢字を混同しているのではないか、という点だろう。

教育漢字(学習漢字)は、「小学校課程で学ばせるように」と決められた漢字で、常用漢字の中から選ばれる。
さらに「この学年でこの漢字を教えるように」という「学年別漢字配当表」が指導要領で定められている。
この教育漢字の数や学年別配当は何度か改定・追加・削除が行われており、現在は1006字。同じ漢字を何年生で習わせるかについても、改定によってちょこちょこと変わっていたりする。

まあ結局は、中学校3年間の教育課程において残りの常用漢字の読み書きができるように指導するので、結局は「義務教育の対象漢字」なわけで、「生徒に教える」ことになるのは間違いはない。

ただし中学生にもなって
「学校で"俺"っていう漢字を習ったから、今日からボクじゃなくてオレと自称するぜ!」
というようなアンポンタンは、いかにアホの子が増えた今時の子供でもありえないと思う
(大体誰に教えられたわけでもなく一人症がオレ化する年代だし)。また、ラノベやら大人と同じ書籍を普通に読みだす時期でもあるから自然と目にして覚えていくものだ。
"俺"を小学校の教育範囲である教育漢字に入れなければそれで済みそうな気もするんだが。

ああでも、
「教科書で"俺"なんていうお下品な文字を教えるから、うちの可愛いエンジェルだった明斗(みんと)くんが"ぼく"じゃなくて"オレ"なんていう下品な一人称を使うようになったザマス!責任取るザマス!」
と殴りこんでくるモンスターペアレントが出てくるリスクの方がずっとリアル
だよなあ。
その理由でならば、候補から取り下げるのは諸手を挙げて賛成しますよハイ。

しかしそうした「教育的観点」から論じるにしても、あくまで常用漢字の本来の意義である
「日常でよく用いられる漢字を学ぶ」
という姿勢で臨むべきであって
「危険・下品だから除く」
のでは、漢字本来の選定意義が蔑ろにされるのではないだろうか


例えば、ニュース文中のこの部分。

6月16日公表の2次案では「鬱」が残る一方で「叩」「濡」「覗」といった漢字が「仮名書きで済む」などと落選した。


「仮名書きで済む」というようなあいまいな記述になっているが、これって正直なところは
「叩」→暴力行為
「濡」→アダルト小説やパッケージなど
「覗」→犯罪行為
をそれぞれ連想させて結びつく字なので、そうした行為に走らないように抑止したり、暴力・性的な表現を規制するための方便に見えるのだが…

特に「叩」なんてのは画数も少ないし、ごくごく一般的だし。

ねじれた「教育的配慮」を借りて分かりやすく語るなら
「"叩"なんて文字を子供に教えたら、他人や親を叩くような子になってしまう」
というような、安直かつばかばかしい発想
のもとに判断されたような印象を受けてならない。
じゃあまだ「叩」が常用漢字(教育漢字)に入れられていない現状の子供が暴力的じゃないのか?とは問うもナンセンスな状況なわけで。ねえ。

結局はニュース内でコメントされている

 教育評論家の尾木直樹法大教授は「『俺』というのは、常用されている言葉。ある知事も『俺は〜』と言っている。『言葉として汚い』という意見もあるのかもしれないが、上品か下品かという対立的なとらえ方はできない。言葉というのは現実での使われ方で決まってくるもの。きちんと教えるべきです」と訴える。


という意見がもっとも常識的で穏当だと思う。

確かに「俺」という一人称はフォーマルでないことは確かだが、一概に「下品」と言ってしまっていいものか。
地方、特に田舎・農村部においては、女性の一人称としてちょっと前まで当たり前に「おれ」という一人称が用いられていた(今でも年配の人中心に普通に使われている)。母方の祖母や叔母たち数人も基本的に「おれ」を使っている。(田舎ことばとしてポピュラーな「おら」とはバリエーションの関係にあるか)
こうした広範囲の地方文化言語をも含む「おれ」という言葉を一概に「下品」「教育上望ましくない」と斬って捨てるのは、そうした地域や職業帯をも蔑視することにつながりかねないと思うのは杞憂だろうか。

現代の用法や意味を元に先行する常用漢字にあって、古来の用法にさかのぼるのはナンセンスかとも思うが、本来の字義・用法が音訓採用の決め手になることもあるので無関係とも言えないかもしれない。
そもそも日本で用いられていた「おれ」という一人称は、元来、男女・貴賤を問わないものだったという。

おれ【俺・己】

自称。広く貴賤男女を問わず目上にも目下にも用いた。現代では、男子が同等もしくは目下に対して用いる。

[補注]
自称の「おれ」は中世以降使用され、特に近世以降多用された。
貴賤男女の別なく用いられたが、近世の後半期ごろから女性の使用が途絶えた。同等もしくは目下に対する使用例が多いが、目上に対する用例もあり、江戸期までは現代語のように特に悪い言葉、卑称までとはいえない。

(日本国語大辞典より)


ある意味、一部地域における女性の「おれ」使用は、現代では失われた近世以前の用法が地方言語の中に保存された例とも言える。こういう例はよくあることで、東北などでよく用いられる「べ」「だべ」という語尾も、古語の「べし」が変化して残ったものといわれている。

ちなみに、漢字「俺[エン]」としては、康煕字典では「北人の用いる一人称」とあるが、中国においても女性一人称として用いられた時期もあるという。
また、この漢字一文字で「大きい」という意味がある。
演習で読むような史料=公式文書や私的出版物ではほとんど目にすることがなかった記憶がある。

ともあれ、バリバリの常用漢字外である現在にあっても、そんじょそこらのちょっとしたアホでも、誰に習うともなく「俺」という字を読んだり書けたりするわけで、今後ことさら常用漢字入りして学校で習わなくても特に何も変わらないといえば変わらないのだけど。

今回はたまたま「俺」が焦点になったけれども、その文字がどういう漢字であれ、候補却下理由が「一般的ではない」「かな書きされる場合が多い」「基本的に言いことば」という国語的なものならまだしも、「教育的でない」「教えたくない」「下品」といった理由(まして人権的配慮とか政治的なしがらみとか)は筋違いだろうと思うのでありますよ。


とはいえ、「俺」という一人称に限って言うならば、その距離間の近さや非公式感、平常感やちょっとアウトローっぽかったり丁寧でない響きが最大の魅力と踏まえた上で、

・学校の授業でみんな一斉にドリル掲載の「俺」という字を書いて練習する
・「俺」の書き間違いを先生が赤ペンで直して、漢字練習帳に10回練習して提出する
・書道の時間に、「"俺"の右はらいはもっとこう…」と手を添えて教える先生


というような光景を想像すると、「やっぱり何か違うような気がする…」という感想もぬぐえないのだった。

ニュース内にもあるように、さらに細かい論議となる「音訓表」の選定(文字を選ぶよりはるかに面倒くさく、一般書籍の記述などにも細かい部分で影響を及ぼすのはこちら)はまだこれからということで、期限までに終わるのかどうかという感じがする。
でもまあ、今までも同じようなやり取りが行われていたのだろうなとは思う。近年そのやり取りがオープンにされる機会が増えただけなのかもしれない。
posted by 大道寺零(管理人) at 16:01 | Comment(2) | TrackBack(0) | ことば
この記事へのコメント
なるほどー。
それにしても昔の新聞などは漢字にルビをふることによって漢字習熟度が高くない人間にも読みやすくしていたわけで、何故今漢字習熟度が低い人間にあわせて「破たん」「隠ぺい」など言葉自体を崩壊させるような状態に陥らせているのかが全然理解できないのです。
もうみんなルビをふればいいと思うよ。
書けなくてもいいから読めればなんとかなるのはPC時代のいいところだし。
といいつつPCでも言葉狩りがあったりするから困ったもんなんですが。
とにかくルビふりゃいいじゃんといつも思ってしまうのですよ。だって漢字とひらがなの組合せだと本当に文章が理解できなくて困るんですもん。
Posted by ぽち at 2008年07月14日 22:13
>>ぽちさん

>何故今漢字習熟度が低い人間にあわせて「破たん」「隠ぺい」など言葉自体を崩壊させるような状態に陥らせているのかが全然理解できないのです。
>もうみんなルビをふればいいと思うよ。

まったく同感ですよー。本当に、パッと見でよけいわかんないんですよねえ。新聞だけじゃなくてTVのテロップなんかでもそうですよね。
新聞の文字は年々大きくなっているので、その気になれば余裕でルビふれそうなんですけどねえ。
…と書いて思ったんですが、TVのテロップやニュース見出しではでは通常ルビを振らないから混ぜ書きにしてるのもあるのでしょうかね。むしろ出版界がそれに追従したとか…

難しいなりに、「目で見て字と読み方・意味を知る」ということもあると思うんですよね。まぜ書きばかりだとその機会がかなり失われてしまうのはなんだかなーと思うのであります。
Posted by 大道寺零 at 2008年07月16日 03:02
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