あまりにとんでもない内容なので…
確かに肉食・欧米式の食事に比べて、和食・菜食が健康面で優れた面があることは認めるけれども、これはあんまりにも話の進め方がひどすぎるわ;
この著者と漫画家の絵、同じような内容の三一書房の文庫本でも見たことがあるなあ…
一番すごいのは、
「砂糖は化学式であらわせる物質だから食べ物じゃない、作り物の物質」
というくだりだろうなあ。
本文で突っ込んであるとおり、それじゃ水も飲めねえ。
ここで一つ私も突っ込んでおきたいことがある。
「肉はこわい」の中で、もっともらしく漢字の成り立ちを使って肉食の危険を強調している場面があるのだが、ハッキリ言ってこれ、「ドこの本から取ってきたのか典拠を示せよ」と詰め寄りたくなるほど怪しいものだ。
この本の中では
「"腐"という字は、"府"の中に"肉"という形で成り立っている」
↓
「"府"とは内臓のこと」
↓
「つまり内臓に肉が入ると腐るということ?」
という、ハイジャンプ魔球も真っ青のものすごい飛躍が示されている。
●府=内臓
これは本当。「府」には「内臓」という意味もある。
よく「五臓六腑」や「腑分け」という言い回しで使われる「腑」と同じ意味合い。というか、「腑」という文字が後からできたもので、もともとは「府」を用いていた。
●「腐」という文字の成り立ちは「府+肉である」
これも本当。
ただし、"この成り立ちにおける「府」の意味が「内臓」を指し、「内臓の中の肉の様子」を表す"というのは正しくない。
*「府」という文字の意味
・くら。宝物や文書をしまう場所。
・役所→「政府」
・役所・政府のある「みやこ」
・州の上位の行政区画
・やしき・邸宅
・何かが集まる場所
・胃・腸などの消化器官
というような意味がある。
この文字は、「付」に部首の「まだれ」が組み合わさって成り立っている。
「まだれ」は、もともと屋根の付いた建物の形からできた象形文字で、家・建物を表している。
「付」は、人の背に手をぴたりとひっつけるさま。
「府」は、「まだれ(部首単体で表記できないので便宜的にここでは部首名で記す)(意味は"いえ")」の会意兼形成文字で、ものをびっしりとひっつけて入れるくら。
「富 フ」(物をびっしり詰め込む→とむ)
「腑 フ」(食べ物の入るくらに似た内臓)
「腐 フ」(肉がくさってぴったりひっつく)などと同系のことば
(学研 漢和大字典[藤堂明保 編]より)
というわけで、「腐」の文字に出てくる「府」は「内臓」の意味ではなく、「付」の「ぴったりひっつく」という意味に強く影響されていることがわかる。
また、「肉が腐ってぺったりくっつく様子」そのものを表しているのであって、「肉だから腐る」というニュアンスとも違う。また、「肉」の字そのものに、(塊ではなく、すでに食べやすく切られた)"柔らかい"肉という意味が含まれている(「朱肉」などはそこから来ている)
「腐」の文字の解説ではさらにこのように解説されている。
府は、びっしりくっつけて物をしまいこむ倉。
腐は「肉+府」の会意兼形声文字で、組織が崩れてぺったりとくっついた肉。「付(くっつく)」と同系のことば。
語義解説の第一では
くさる・くちる
もと、肉の形がくずれてべったりくっつく。
また、転じて、原形をとどめないようにくさる。
とあり、「生ものが腐った時のペタペタグズグズした様子、形をしっかりとどめていない、柔らかい様子」が意味のメインであることが分かる。
なお、「豆腐」の「腐」もこのニュアンス(豆から作った柔らかい・脆いものという意味。腐った豆ではない。)で用いられている。
(もしこれが「府=内臓の中の肉(がドロドロしている)の様子」から来たものであったとしても、そのドロドロは胃液等によって正常に消化された様子であり、決して「不健康・不自然」「人の体の害悪」ではありえないと思うのだが…)
この手の「人という字は人と人が支え合って…」的な、いわば「金八式」の言い回しは、聴き手の心に訴える力を持つ「イイ話」が多いのだが、教訓性・道徳性を求めるあまり、全く字義的に正しくない、あるいは「本当にそういう成り立ちなのか」を確かめもせずに安易に飛びついて引用が引用を呼び、まことしやかに語られることが多い。
結婚式のスピーチや中小企業の朝礼レベルならそれもいいだろうが、教育現場や不特定多数に向けた啓蒙コンテンツの中でもっともらしく披露され、それを信じた人によってまるで正しいかのように伝播されていくことはあまりよろしくないと思う。
代表的なものに、
「親」=「木の上に立って子供を見守る親心を表した文字」
なんてのがあるが、これも残念ながら誰かが後から作ったもっともらしい「金八式」だ。
(本来は、「辛」+「木」+「見」の3ピースから出来上がった漢字。
「辛」は、「肌身を刺すような鋭いナイフ」の意。
これに「木」を加えた「シン(PC上で表記不能・「親」の字の左半分)」は、「薪」の元の字で、「木をナイフで切った生木」の意味。
これに「見」を組み合わせて、「ナイフでわが身を切るように、わがことのように身近に接して見ている間柄」「相手に何かがあれば自分も直に刺激を受ける(=「生木を裂く」というような言い回しがまさにぴったりくるだろう)ような親しい関係」を表す漢字として生まれたものである。)
(あと、「人」という字も、人と人が支え合っている形ではなく、単に一人の人間が立っている姿からできた象形文字)
「語義的・学問的に正しくなくても、親の有難みを教えるいい話なんだからいいじゃないか」という向きもあるのだが……あれ?これって…最初の部分を「科学」に置き換えれば、「水伝エピソード」愛用者と全く同じ論調じゃありませんか???
まあ私は、確かに説明するのがやや面倒ではあるけれど、本来の「親」の字の成り立ちも十分に心に沁みると感じるけれども。
ずいぶん話がそれてしまったが、要するに、「肉食は諸悪の根源!」という自説を強調するためだけに、ちょっと厚めの漢和辞典一冊あれば正しく分かる漢字の成り立ちをねじまげてまでもっともらしく「啓蒙」の一手段にするなんてやり方は、そもそも方法論として随分とおかしいんじゃないの?と思ったのだった。
つまり、疑似科学とかトンデモ関係は主に理系的な側面からその論法のおかしさが指摘されることが多いのだけど、「文系的に突っ込んでも十分ヤバい」ということを言いたかった。
ただ注意していただきたいなと思うのは、「食育」そのものがすべてここまで極端なものでは決してなく、実際に今の教育現場(特に幼年〜小学校)を見ると、「親の分も子供の分も、食生活が一から十まで終わってる家、その親」の割合というのは、おそらく一般の人の想像をはるかに超えているという事実。だから「教育しなきゃならん親」の数というのは多く、「まずは三食食わせてやって」からはじめなければならない状況は今そこかしこに実在しているし、また学校等で常識的に進められている「食育」の中では、少なくともここで取り上げられているような極端なやり方はされていないということを踏まえて、「食育はすべてマクロビ教でありトンデモである」というような誤解はしないでほしいな、と思う。(大体そうであるならば、給食で毎日牛乳が出るわけがない)
・様々な食材や食べ方について知り、一つのものに偏らずバランスよく、色々なものを食べる
・季節の食べ物・食文化、地元で作られている食べ物に興味を持ち、地産地消・フードマイレージ・食べ物が手元に届くまでの経路や生産者の手間暇について知る(社会科見学などとリンクさせて総合的に学ぶ)
といったところが実際の柱となっており、どうしてもインスタント・ファストフード・肉メイン・出来あいもの・濃い味に走りがちな食生活から視野を広げるために、和食・菜食寄りになりがちなきらいは幾分あるけれども、まあ大体はずっと穏当なものだ(というより、下手にハードルを上げてしまうと一般オカンはついてこれないし)。