トンデモ食育(いらん誤解を呼びそうなので、そう言いたくないんだけど)冊子の中で、「府(内臓)に肉と書いて"腐"」「肉は内臓を腐らせる」というような記述があったのでそれに突っ込み、なおかつ「本来の漢字の成り立ちとは違う"金八式"のレトリックがしばしば話として幅を利かせること」についても批判的な考えを述べた。
で、それに対して誤解を受ける可能性もありそうかな、と思った。
別に、「AにBと書いてC(という字になる)」的な言い回し(本当はそういう成り立ちの字ではないもの)すべてにおいて「やめるべき」とは考えていない。
特に、漢字学習を始めた小学生が文字の構成を覚える分には、たとえば
「三人の日と書いて"春"」
なんてフレーズはけっこう効果がある(時にそのせいで誤った書き順が定着してしまうものもあるが、形そのものを間違うよりはまあいいだろうと思う)し、面白みもあるものなので否定しない。
その程度の、「A+BでCになる」というようなモデリング的なフレーズは別に罪はないと思うのだが、この言い回しが、あたかも「意味の上でも本当にそういう成り立ちである」と説くものになってくると、創作が本来の字義に合わないものは、いくら「イイ話」であっても問題が出てくると思う。
「木の上に立って見るのが"親"」
ならまずセーフだが
「木の上に立って見るという心を表現してできたのが"親"という文字なんだよ」
まで行くと"ウソ"の領域に足をつっこんでしまっていると思う。
勿論この「金八式」の扱いもケースバイケースで、「それは本当は違うんだけど」と脇から訂正することが「無粋」だったり「空気読めない行為」となる場合も往々にしてある。
ひとつ例をあげると、例の冊子の中で出てくる
「"食"は人を良くするという意味」
というのもまた字義的にはウソの"金八式"だ。(もっともこれは、食を語る時には非常によく使われるものなのだが)
「食」という文字の成り立ちは、確かに「人」みたいな形と「良」の部分に分かれているのだが、上部が表しているのは「人」ではなくい。
これは、もともと「A」のような形で書かれていたもので、「器に何かを集めて、蓋をする」様子を表したもの。
その下の「良」の部分は、「穀物を盛ったさま」を示している。
文字としては、「(穀物類を)容器に入れて手を加え、柔らかくして食べる」意味を示し、次第に「食べること全般」を意味するようになった。
部首「食(しょくへん)」としても、食べ物に関わる漢字に多く使われる文字だが、「柔らかく加工する」というニュアンスは他の文字の中でも生きている。
(例
「飴」=穀物を柔らかく煮て加工し、甘みを出したもの
「飼」=柔らかくほぐした飼料)
だからといって、これも例えばの話だが、田舎のおばあちゃんがたまに会いにきた子供や孫たちに食べさせるためにたくさんご馳走をこしらえて並べながら、同じように
「食べるっていう文字は"人が良くなる"って書くんだよ。たくさん食べて大きくなってね」
とニッコリ話しかけてきてくれたような状況で上のようなことをバッサリ言えるかとなると、私は絶対無理だと思うし、まあそれが普通なんじゃないだろうか。
しかしこれが個人的な場面ではなく、「文字そのものがそうやってできた」と断言的なニュアンスで、しかも多数・あるいは不特定多数に向けて教育・啓蒙を行う場や書物上で展開されたならば「違うんだけどなー」という何らかのアクションはするかもしれない。
まして、「内臓を腐らせるのが肉」というような、明らかな誤り、しかもネガティブな文字の中から、あるもの(ここでは肉)を批判するためだけに一部分だけを抜き取って強引な展開をするような誤謬まみれのものであれば尚更だ。
直接の抗議や、周囲の人に「これはまったくの間違い・ミスリード」と説明を行わないまでも、「こんなメチャクチャな論法を使うような著者・本の内容は1から10まで信用に値しない」と判断するのは間違いない。
漢字の成り立ちは、そんな風に捏造しなくても十分に面白かったり、時に"教育的"用途にしっくりマッチするようなものがたくさんある。
我田引水・あるいは受け売りの"金八式"に悦に入って使いまわす前に、きちんと辞書で調べたり、「よく使われる言い回しだが本当にそうなんだろうか?」とチェックする気持ちを持って確かめたりする好奇心がちょっとだけあれば、思い込んでいたよりももっと面白いものに出会える可能性が待っている。
先ほど挙げた「食」の漢字の成り立ちは、よく好まれている「人を良くするためのもの・行為」という意味ではない。
だからといって、これが食育や食生活改善のための教材として不向きだったり、つまらなくなってしまうかとは私は思わない。
「食」という一文字には、「eat」だけではなく、「cook」の意味が強く含まれている。これは上記の教育目的に関して非常に示唆的なものを何重にも含んでいるのではないだろうか。
「人が何らかの手を加える」からこそ「食」である、ということ。
それは例えば、包丁やナイフが1本もなくても、すべて外食や中食で3食済ませることが容易な現代の食生活にあって、「出来合いのものや外食だけでなく、何かしら手を加えたものを食べよう、食べさせよう」という方向にも持っていけるだろう。
また、かなり飛躍的にはなるが、子供に対して、
「どのような食べ物でも必ず人の手を経てこそ手に入り、口に入れることが出来るのだから、携わった全ての人に感謝し、粗末にしないで食べよう」
という指導の材料にもなりうる。
製造者・調理やサービス業務のスタッフに、「作業一つ一つが"食"を構成しているのだからおざなりにせずに努めるように」というような訓話も出来るかもしれない。
ちょっと調べればこうした可能性が広がっているものを、人口に膾炙した「人を良くするから食」という金八式レトリックのおかげで、そこで思考停止してしまっている人が多いのは事実じゃないだろうか。
時に金八式を疑ってかかったり、調べてみることも面白いし、多分けっこう意味のあることだと思うよ?と言いたかったのだった。
人の夢と書いて「儚い」(だから夢なんて追ったって仕方がない)
とか
信じる者と書いて「儲け」(だからあきらめずに仕事を続けなさい)
とかとか
ただ「雀の鬼」と書いて「雀鬼」は、いいんだか悪いんだか、いまだによくわからないですが・・・。
あと、「人という字はお互いに寄りかかっている(相手をアテにしている、相手に責任転嫁するという様な意味で)」と猫が人間に関して解説している漫画があったなあ(^^;)どれだったか……
「奴は20年間無敗の男…雀の鬼と書いて雀鬼!」とか言われた日には、かの桜井さんもなんか、障子貼ってる隙にノリ食っちゃうようなイメージが(今やホームレスだってそんなもん食わないと思いますがw)。
bergkatzeさんもおっしゃってますが、「信者がいるから儲かる」みたいな「うまい言い方」自体は好きなんですよ。よく考えるなあとも思うし、話が盛り上がることもありますし。
場面が教育や啓蒙方面でなく、「本当にそこからできた字だよ」みたいな言い方でなければ、金八式の面白さは嫌いではないのです。
>>bergkatzeさん
>「人」
藤岡藤巻の歌(「息子よ」)の
「いいか息子よ
人という字をよく見てみろ
人と人が支え合ってできてるんじゃないぞ
大きい方が小さい方によっかかってんだぞ」
という歌詞には大爆笑しました。