2008年10月15日

「モンテ・クリスト伯」感想(その3)〜ジャニナとエデの父アリ・パシャ一般書籍

まず最初に
「エデの故郷・"ジャニナ"ってそもそも地図で言えばどこ?」
「エデの父、アリ・パシャ(アリ・テブラン)は実在した人?」

という疑問が湧いて来たので調べてみた。これまで述べたように、この作品では設定当時の社会情勢がほぼそのまま反映されているので、実際にギリシャのどこなのか、実在している(あるいはモデルがいる)としたらどのような人物だったのかに興味を覚えた。

また作中では、「アリ・パシャ」について、「ヨーロッパでも誰もが知っている有名人」とあるのみで、今一つ詳しく語られていない。これはいくつかの社会情勢と同様に、ほぼ同時代(発表から少なくとも10〜20年くらい前の、ほとんどの読者の記憶にある範囲の時期)のことで共通理解があるため、クドクド語る必要もなく、かえって物語のテンポを削ぐからでもあるのだろう。

「パシャ」というのはトルコの官職名・総称なので、名前だけ聞くと当然トルコ側の人間に見えるのだが、作中のアリ・パシャはフランスと結んでギリシャ(当時は長年トルコの支配下にあった)の独立を援護する立場にあった。そして単にトルコから一地方を任されているのではなく、まるで一国の王であり、エデもまた王女級の扱いをされている。そしてなぜ「パシャ」の名を持ちながらトルコからの攻撃を受けて滅ぼされるのか。
当時のギリシャの歴史状況…というか地域的にはアルバニアの歴史状況と言った方がいいのかもしれないが、それがスパッと頭から出てくればいいけれども、あの辺の事情も各国の思惑が絡んでややこしく、そうそうすぐにはつながらないことが多いと思う。

結論から言えば、

・ジャニナ(ヤニナ)は、日本で出ている地図等での一般的な表記は「ヨアニナ」「イオアニナ」「イオアニア」
・エデの父「ジャニナのアリ・パシャ」は実在した人物


である。



地名表記は国や時代によって大きく変わることが珍しくない。
「ジャニナ」で検索すると、それこそ結果の大半が「モンテ・クリスト伯」になってしまうような感じなのだが、ちょっと掘ってみるとすぐに分かった。

現在では「Ioania」の表記がヨーロッパでは一般的で、日本においても「イオアニナ」「イオアニア」「ヨアニナ」が多い。「ヨハニナ」とも。
文学・音楽等の訳語として「ジャニナ」「ヤニナ」が用いられる。トルコ的な読み方では「ヤンヤ」とも。

Google Map

janina.jpgギリシャ北西部イプロス地方、「ヨアニナ県」の県都。県北はアルバニアと接している。
東にヒンドス山脈を臨み、ヨアニナ(パンボディス)湖の西のほとりに位置。
この湖の小島こそアリ・パシャが殺された場所であり、現在は博物館となっている。
エデが作中で
わたくし、ちょうど楓の林のかげにおりました。そばには湖水があり、葉越しに見えるゆらめく鏡といったような湖水の面を、今もありありとおぼえております。

と、幼く幸せだった頃の思い出を語るシーン、また凄惨な父の最期のシーンに登場する湖もこれだ。

参考:旅行者の写真ページ(英文)

他には
遠くヒンドスやオリュンポスの山の見える広々としたながめ、あの大きなながめ

とも回想されている。

風光明媚さと数々の歴史遺産、トルコやアリ・パシャ時代の雰囲気をも残す風景で、日本で組まれるギリシャツアー(地中海諸国を飛び回るというより、ギリシャを重点的に回る感じの旅程)の中に組み込まれることもしばしばのようだ。
ギリシャ正教会・イスラムモスク・シナゴーグ(ユダヤ教の教会)が混在している。

6世紀に、ビザンツ皇帝・ユスティニアヌス大帝によって建設された。
中世に入ると支配権がコロコロ変わるのだが、15世紀以降はしばらくトルコ領となる。しかし文化・経済の要所となっていたヨアニナに対しトルコ側は特権を認めていた。(ただし17世紀の反乱が失敗したのちはキリスト教徒はやや冷遇され、トルコ人やユダヤ人が流入した)
1787年頃、アリ=パシャが太守となり、1789年頃には彼の領地の中心となる。この時代が最も同地の経済・文化が発展した時期とも言われている。
1869年に大火で焼失するが復興。1913年にギリシャに編入された。
ヨアニナには多くのロマニオット(長年ギリシャに住んでいたユダヤ民族)が住んでいたが、ナチのホロコーストによって大多数が収容所に送られ殺された。

工芸特産品として、ガラス製の水タバコキセル「ナルギレ」がある。これもまた、作中ではエデの居室や伯爵の応接室に何度も登場するおなじみのアイテムである。現在でも土産物等に人気であり、専用のタバコも買えるらしい。

wikipediaではヨアニナ - Wikipedia" target="_blank">「ヨアニナ」で項目が立っている。


「父は、」と、エデは、キッと顔をあげながら言った。「ヨーロッパではジャニナのパシャ、アリ・テブランの名で知られている有名な人で、父の前には、トルコでさえもふるえあがったものでした。」
アルベールは、なぜというわけもなく、言うに言われぬ威厳をもって言われたそれらの言葉を聞いて、身をふるわせた。そして、おそろしい死に方をしたというので、現代ヨーロッパの人の目に大きく映し出されることになったその血なまぐさい人物の思い出を語りだしながら、彼女の眼に、なにかしら陰鬱な、おそろしいものがきらめいているように感じた。
(5巻265ページ)

alipasha1.jpg
(左側はアリ・パシャの生まれ故郷・アルバニアのテペレナにある銅像)

「アリ」はイスラム圏ではごくありふれた名前、そして「パシャ」の官職名も多くの人物が帯びているので、単に「アリ・パシャ」と言った場合、歴史上の人物でも数人が当てはまる。たとえばこの少し後にエジプトに覇権を立てるムハンマド・アリーもまた「アリ・パシャ」だ。
しかし単に「アリ・パシャ」と呼んだ場合には、世界史一般的にはこのエデの父である「ジャニナのアリ・パシャ」を指す。

「ジャニナの獅子」という勇猛な通称で知られるこの人の一生をかいつまんで言うと以下のようなものだ。

アリ・パシャ(1741-1822/1/24)
(生年は1744年説・1740年説もある)

アルバニアの土豪の家に生まれる。出身地はテペレナのHormove(ともにアルバニア南西部の地名)で、「アリ・パシャ・テペレナ」とも呼ばれる。
作中「(アリ・)テブラン」と呼ばれているのは「Tepelena」のフランス語読み「tebelen」と思われる。19世紀当時のフランスでは「Ali-Tébélen」という呼称が多く使われていたようだ。

父Veliはトルコのベイ(一般にパシャに次ぐ官位)、母Hamkoはギリシャ人だったという説もある。

土豪の家とはいうものの経済的・社会的にも恵まれない少年期を過ごし、父が殺された後、1758年に母が山賊団を結成し、そのリーダーとなって猛威を奮う。
その働きにはオスマンも一目置き、地方のパシャに協力して反乱制圧に一役買うなど実績を上げる。
1768年、デルヴィナ(アルバニア地名)のパシャの娘と結婚。
その後もオスマントルコの戦争や反乱制圧などに大いに力を貸し、領地を与えられてパシャとなる。
アリ・パシャ自身は前述したようにアルバニア人なのだが、オスマントルコは才能ある外国人を多く登用していた。特にアルバニア人は軍事方面の官職を与えられることが多かったという。

名目的にはあくまで「オスマントルコから一地方を任された地方総督」にすぎないのだが、実際にはアルバニア南部・イピロス地方・テッサリアに達するまで広大な地域を支配し、ギリシャ西部はさしずめ、半独立国的な状態となった。
1789年頃には、ジャニナがその領地の中心となり、居城が築かれた。経済・文化は更に発展し、「ジャニナの町は昔は軍隊の中に、今は金と書物の中にある。」とまで言われた。
なおアリ・パシャのハレムには600人以上の女性がいたとされている。

1800年代には既にフランスやイギリスと手を結んで支援を受けていた。
トルコの官名を帯びながら親フランス、しかも一介の総督ではなく、一国の王に限りなく近い扱いをされるのはこういった実情が関係している。
一方このころのトルコは、列強との戦争や干渉、さらにこの後起こる各地の独立を控えて「瀕死の病人」と称されるほどの衰退期の始まリに当たっていた。
当初は、ロシアを牽制するためにフランスと手を結んでいたものの、1808年にその協力関係を破棄して敵対する。ここにアリ・パシャとトルコ本国の対フランスの姿勢は180度違ったものになった。

ヨーロッパ諸国に対し友好的であったアリ・パシャは、ジャニナの居城にしばしば同地を訪れた異国人を迎えて歓待した。
1809年に、地中海周辺を放浪旅行していたイギリスの高名な詩人・バイロンがジャニナに逗留したのもその頃である。
その時のジャニナの様子、そしてアリ・パシャ本人や邸内の風情は、帰国後に著わしてベストセラーとなった「チャイルド・ハロルドの巡礼」の中に結構な分量を占めて描かれている。
(ちなみに同作品は、土井晩翠のすこぶる古めかしい訳ではあるがWeb上でPDFファイルとして提供されているので、興味のある方はお読みになってなってみては)
この中では、アリ・パシャの、もと山賊らしい、時に残忍な勇猛ぶりやバーバリアンそのものといったムードに一見バイロンが引き気味でありながらも、彼の行動力や圧倒的なエネルギーにどこか心を惹きつけられずにいられないのが見て取れる。(しかし最近は「いやバイロンはほんとにドッ引きしてた」説も出ているらしい)
勿論、ギリシャやアルバニアの美しい風景やたっぷりの異国情緒は言うに及ばず丹念に描写されて好評を博した。
一代でギリシャ西部を手中に収めた傑物、しかも親ヨーロッパということで既に有名だったかもしれないが、やはり「ジャニナの獅子・アリ・パシャ」の名とイメージを一気に広めたのは、「チャイルド・ハロルド」によるところが大きかったのだろう。これについてはまた後で再度記述することにする。

そのすぐ後、ギリシャ独立秘密結社「フィリキ・エテリア」が1814年に結成され、急速に独立への気運が高まる。トルコの勢いを削ぎたい欧州列強も非公式にこれを支援していた。
1820年にはアルバニアでトルコへの反乱が起き、1821年にフィリキ・エテリアがルーマニアで蜂起したことでギリシア独立戦争が公式に始まる。
トルコはアリ・パシャにいつまでも半独立状態を許しておくわけにはいかず、その権限を取り上げようとするが、当然アリ・パシャは自領の独立を保持しようとし、トルコに反旗を翻した。まあ積極的にギリシャ独立に感じ入って共闘を申し出たとかそういうわけではなく、あくまで自分の領土を死守しようとしたのだった。
トルコはアリ・パシャ追討の令を出してジャニナを包囲するのだが、その分兵力を分割させなければならず、ギリシャ独立勢力にとっては好都合だった。(結果的に独立活動を助けたともいえる)この機に乗じてギリシャ各地で蜂起がおこり、第一回国民議会招集に続いて、翌1822年1月にはギリシャ独立宣言が出されるに至る。

一方アリ・パシャの兵力は力尽き、ジャニナ湖の小島にある邸で、スルタン(トルコ王)の許しを乞うために待機していたのだが、暗殺されてしまう。
これが1822年1月24日(1823年説もあり?)のことで、物語の中で4歳だったエデが見た惨劇こそ、この日の暗殺事件なのだ。
アリ・パシャの遺体は首を落とされて、トルコのスルタン・マフムト2世の眼前に捧げられた。(このシーンはしばしば挿絵や絵画の題材にもなっている)

alipasha2.jpg

それにしても、暗殺に倒れなければもうちょっとは生きていたであろうアリ・パシャは、記録が正しければこの時ほぼ80歳。平均寿命が今とは段違いだから、現在で言えば100歳以上にも相当する高齢でありながら最後まで猛将ぶりを見せるあたりはすごい。
劇中の回想で、「エデの幼さに対比してずいぶん爺ちゃん臭い描写があるなあ」と思っていたのが、80歳じゃそれもそのはずである。
(もっとも文中では「父は六十になっておりました」とあるが)

この時期のバルカン半島の情勢は世界史上重要な部分であり、授業でも避けて通ることはないのだが、何しろ扱う事項がかなり多く、各国の動きも入り組んでいるため、よほど授業に余裕がある場合にこぼれ話的にでもなければ「ジャニナの獅子 アリ・パシャ」について触れる機会はまずないだろうと思われる(そして近年、授業時数は削減されて余裕がないのはご承知の通りだし、そもそも受験にも出ないし)。
そんなこともあってか、日本とヨーロッパでは随分と彼の知名度には格差がある。
事実、日本のwikipediaには彼の単独項目はなく、おそらく「ヨアニナ」の項にある説明がもっとも詳しく述べられているかと思う。上記については、ギリシア独立戦争前後やアルバニアの歴史について述べたWebページ、及び英語版wikipediaの「Ali Pasha」の項目を参考にした。

その後、最終的には英・仏・露がギリシャ独立を支持してトルコに対抗。
1827年、英仏露連合軍と、エジプトに応援を要請したトルコ軍との間でナヴァリノの海戦。トルコが決定的な敗北を喫する。
1829年には、トルコがギリシャの独立を承認した。(アドリアノープル条約)


[当時のヨーロッパ文化とギリシャ独立運動]

「西洋文化の重要な故郷」「古代の神々と英雄の末裔の地」であるギリシャの危機と蜂起は、ロマン主義の波が本格化したヨーロッパの文化人たちの心境にも大きな影響を及ぼした。

1822年4月、オスマン軍はキオス(シオ)島に上陸し、島のギリシャ人2万を殺し、4万を拉致して奴隷として売り飛ばした。島に生き残ったギリシャ人はわずかに2000人とも言われた。もっともこれは直接独立運動を叩く意図ではなく、その前年に、ギリシア軍がトリポリのイスラム教徒に略奪・暴行した事件への報復だったと言われている。
このキオス島は、かのホメロスの生まれ故郷とも伝えられていた。
ドラクロワは1824年に、有名な「キオスの虐殺」を発表。殺戮場面のストレートな表現に、当時まだ圧倒的だった古典派支持者を中心に批判を受けるもサロン(官展)入賞、その後政府に買い上げられて(結果的に)出世作となった。(さらに後年、ユゴーが1829年「東方詩集」の中で「シオのこども」の一編を捜索する上でインスパイアされたとも言われている)

残虐な場面と作者の憤りをそのまま表現したこの絵は、ヨーロッパの文化人の感情を大いに揺り動かし、各地で義勇軍を結成する機運が高まった。
ヨーロッパ各国政府はそれぞれの思惑があり、公式に独立戦争に介入するのは1827年以降だった。それ以前は非公式の義勇軍での参加がもっぱらだった。

文芸面でもっとも有名なのが、ずっと上で登場したイギリスのバイロンである。
一時は文壇を席巻したベストセラー作家であり、「美しき寵児」だったバイロンだが、数々のトラブルと恋愛遍歴、特に異母姉との不倫騒動が決定打となってイギリスを追われて失意の日々を送ってした。しかしかつてこよなく愛し、青春の火を送ったギリシャの危機が彼の最後の情熱に火を付け、私財をなげうって独立運動を支援する。
のみならず、ついには施設義勇軍を作り、1823年には自ら指揮を執るべくギリシャに上陸。しかし実際には何も具体的な作戦行動を行えないまま翌年マラリアにかかって現地ミソロンギで死んでしまう。
独立宣言が出されたとはいえ、実際のギリシャ軍や独立陣営は統率が取れず、しばしば内ゲバまで起こる始末で非常にお粗末だったらしい。なので何度もトルコ軍に巻き返され、バイロンが赴いたミソロンギにしても1825年に包囲、翌年には陥落されている。
そしてバイロンが率いた義勇軍も、実質は名ばかりで訓練も受けていない者が多く、とても「軍」と呼べる代物ではなかったとも言われている。

とはいえ、当時の文化人たちのギリシャへの関心が並々ならぬものであったことは、その他の創作者の作品からも見受けられる。

そして重要なのは、デュマが相当バイロンに心酔していた…というか、ファンだったということだろう。
「モンテ・クリスト伯」の文中にも、何度も「マンフレッド」や「ララ」の名前(いずれもバイロンの作品中に登場する有名な人物)が比喩的に用いられているのは言うに及ばず、いくつかの人名にも共通点が(もっとも単なる偶然かもしれないが)見られる。
そして、「エデ」の名もまた、「ドン・ジュアン」に登場する美女にちなんでいると思われる(これは次稿にて)

[一例]

・山賊ルイジ・ヴァンパの部下、女装美少年ベッポ
  →バイロンの1818年の作品「ベッポ」

・アリ・パシャの娘エデ
  →バイロン「ドン・ジュアン」(1819〜1824・未完)に登場するギリシャの島の海賊の娘「エデ」。ドン・ジュアンの重要な相手役の一人。

・モンテ・クリスト伯の忠実な奴隷(唖のヌビア人)アリ
  →バイロン作「海賊」(1814)に登場する主人公・海賊コンラッドの忠実な奴隷の名前が「アリ」
(「海賊」も当時のベストセラーとなったが、今となってはバイロンの詩としてより、バレエの演目の方が有名だろう。ちなみにこの作中にもトルコのパシャが登場し、その描写やハレムの様子などにアリ・パシャ邸逗留時の経験が多いに反映されているとも言われている)

これはたんに偶然の一致としても、実際にデュマが「熱心なバイロンリスペクター」であったことは研究文献などでもしばしば語られているようだ。(後にデュマが建てた「モンテ・クリスト城」にも銅像を建てたというからハンパじゃない)
「エデ」という共通した名前を用いてギリシャ出身に、またアリ・パシャの娘という大胆な設定にした背景には、バイロンの作品や生きざまへからの影響が関わっているのではないだろうか。


一方、バイロンの影響を抜きにしても、実際のところ「ジャニナの獅子 アリ・パシャ」の存在はかなり有名で、そのものを題材にしたり、彼が登場するドキュメンタリーや音楽などが作られていた。バルカン半島情勢への興味の高まりの中で彼もしばしば関心の対象となり、また作品を通じて知名度が上がって行ったのだろうか。
というか、調べてみるとデュマ自身も、「モンテ・クリスト伯」発表以前に、アリ・パシャの生涯を扱ったノンフィクション作品を執筆していたのだった。
「チャイルド・ハロルドの巡礼」以降の、「アリ・パシャ」に関する作品を間接直接含めて並べてみるとこんな感じになる。

1812 バイロン「チャイルド・ハロルドの巡礼」(長編詩)
1814 バイロン「海賊」(物語詩)
1821 ルイ・デュプレ「湖上のアリ・パシャ」(版画)
1822 Francois Pouqueville, "Notice sur la fin tragique d’Ali-Tébélen"(ドキュメント?)
1828 ロルツィング「ヤニナのアリ・パシャ」(歌劇)初演
1834 ベルリオーズ、独奏ヴィオラ付き交響曲「イタリアのハロルド」初演
1837 Davenport 「The Life of Ali Pasha」(ドキュメント?)
1838-39 デュマ、ノンフィクション作品「Crimes célèbres」の一編として「Ali Pasha」を発表
1842  Paul Emil Jacobs「The Pasha's Favourite (Ali Pasha and Kira Vassiliki) 」(油絵)
1845-46 デュマ「モンテ・クリスト伯」連載
1856 バイロン原作バレエ「海賊」パリで初演
1860 Johann Nepomuk Geiger 「Ali Pascha von Janina - Sultan Mahmud II 」(挿絵?)

中にはwikipediaの参考文献で見ただけのものも入ってるのだが、まあこんな感じだろうか。
少なくともアリ・パシャの生涯や概要については、ビジュアルイメージ含めてそこそこ知られた題材だったことがうかがえる。中には寵姫ヴァジリキ(作中ではエデの母)の登場するものもあるようだ。


[Crimes célèbres]
1839〜1941にデュマが発表したドキュメンタリー、というかエッセイ。(製作に当たっては単独ではなく、何人かの友人の助力を得たという)
ヨーロッパの著名な犯罪、あるいは犯罪者を数件選んでオムニバス的に書いたもので、8巻本とされている。
(出版された日本語訳があるかどうかは不明。とりあえず邦題は調べられなかった。)
この中の一編に「Ali Pasha」がある。他に取り上げられた有名どころとしてはルクレツィア・ボルジアやメアリ・スチュアートなど。
「モンテ・クリスト伯」との絡みもあるせいか、欧米ではこの「Ali Pasha」のみをシングルカットして単行本も出ている。

Web上では、プロジェクト・グーテンベルグによる英訳を読むことができる。

フルバージョン
「Ali Pasha」のみ

読んでみると(何分にも英語力がないしざっとしか目を通していないのだが)、特にアリ・パシャが包囲されてから暗殺される過程の描写など、「モンテ・クリスト伯」に受け継がれたと思われる部分が結構多い。これを描くにあたっての取材やイマジネーションが生かされたと考えるべきだろう。
また、アリ・パシャの死後、ハレムの女性や子供たちが殺されたり奴隷商人に売られたりする描写もあった。
作中ではエデの母である「美しいヴァジリキ」も登場する(英訳文中では"Basilessa"および"Basilissa"と表記されている)。
長くなってしまったので、彼女についてはエントリを分けて書くことにする。
posted by 大道寺零(管理人) at 21:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 一般書籍
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