2009年01月19日

「どですかでん」(1970年)映画

なんーとなく見るのを後回しにしてしまっていたのだけど、ようやく最後まで見た。
けっこう見るのが辛いシチュエーションや話も多いこともあって、何かの合間に30分くらいずつ、エピソードの切れ間と思しき所で細切れに見るという、ファンからは怒られそうな見方になってしまったのだが…

いや〜この作品、読後感を語ろうとするとえらく難しいというか、なかなかまとまらない。
賛否両論が激しい作品だというのも理解できるし、興行的にはダメだったというのもこれまたさもあらん、と思う。
「隠し砦」とか「赤ひげ」のように、「面白いよ!」と太鼓判を押せるかと言えば私には難しい。
貧民街を舞台にしたオムニバスストーリーなのだが、現代で想像できる「貧しさ」とは何もかもレベルが違っていて、住居にしろ服装にしろ、現代では「極貧」とはいえここまで小汚いということは(それこそホームレスのレベルでなければ)まずお目にかかれない。
どうにも救いがなく、見ていて怒りにかられるようなエピソード、暗い話が重いのだが、それだけではなく、あっけらかんとした強かな話、じんわりと人の絆を描く話もある。しかしどれもシチュエーションや設定が「キツい」ため、「面白い」「貧しさの中のユーモア」という軽い一言で片づけていいものか、という気がすごくする。
どのエピソードにもどこかしら「目をそらしたくなる」「見なくていいものを見てしまった」ような気まずさのようなものを感じる。
そして見終わった後には、何かどっしりと重い「実感」が残る。まるで澱のような印象だが、それでいて「気まずさ」だけではない、複合的な何かがある。なんとも不思議だ。

山本周五郎の「季節のない街」を原作にしており、作品世界については、原作も読んで比較してからのほうが把握できるのだろうけど(現在未読)、とりあえず映画単体からの感想など。


バラックのような建物が雑然と並ぶ「街」に住む人たちの、いくつかのドラマをオムニバス風に展開する作品。
住民たちは普通に会社に通う男性からホームレス、職人、小さな店を営む人たちまでさまざまだが、いずれも暮らし向きは豊かではなく、一言で言ってしまえば「貧民街」。
街で小さな天ぷら屋を営んで生計を立てている母親と二人暮らしの少年「六ちゃん」は、電車が大好きな精神障害児で、毎日彼の頭の中だけにある電車を運転して、産業廃棄物が山と積まれた街の中を環状線よろしく巡航するのが日課。
彼は住民たちのどの物語にも関わることはなく、ストーリーの合間を縫うようにして、「どですかでん〜どですかでん〜」と電車の音を口ずさみながら走り抜けていく。
まるで彼らの家の一つ一つが、六ちゃんの電車が通る駅のようにも思える。

オムニバス形式で構成されたドラマという点では「赤ひげ」と共通している(原作者も同じ)なのだが、決定的に違う点は、「赤ひげ」のようなカタルシスや救済・昇華(例えば赤ひげの格闘シーンや、女郎屋のおかみが撃退される場面など)がほとんど用意されておらず、「不幸や不遇の投げっぱなし」になるエピソードが多いことだろう。そしてそれこそがこの作品の価値かとも感じる。
だからこそホームレス親子や少女かつ子の物語の結末に胸をえぐられて、苦い印象が強く残るのだろう。
「赤ひげ」では、どの人物にも哀れさや温かみのようなものを感じたのだが、こちらは必ずしもそうではなく、特にかつ子の叔父に至っては正直「この最低男、さっさと死ねばいいのに」と憤った人は日本中に数知れずいるのではないだろうか。(勿論、そう思わせる役者の演技はたいしたものだ)

要点をまとめるのが非常に難しいのだが、特に2点について強い印象が残った。

・「人生」は他者の認識によって成立するということ
・現実と幻想(脳内の世界)

前者については、いくつかのエピソードの中で明確にセリフとして語られているので分かりやすく、また形を換えて反復されることで胸に残る。

自殺志願の男(藤原釜足)と話すたんばさん(渡辺篤)は、「そんなに辛いなら」と、毒薬を渡して飲ませ、薬が効いてくるまでの間に最後の話し相手になる。
男は、今でも夢に出てくるという死んだ家族への思いを語るのだが、たんばさんは言う。
「あなたの中だけに生きている家族の方たちは、あなたが死ぬと同時に死んでしまう」
それを聞かされた男はハッと気付き、やにわに後悔にとらわれて、「俺は死にたくない!早く解毒剤を出せ!」と取り乱すのだが、実は毒薬と言ったのはただの胃薬だったということを聞いて放心し、我に返って家に帰ってしまうのだった。

誰とも口を利かない陰気な男・平さん(芥川比呂志)のエピソードでは、彼が心を閉ざした原因は妻(奈良岡朋子)の不貞によるショックであることがだんだん分かっていく。自責の念に駆られた妻は街にやってきて生活を共にし、献身的に尽くすのだが、平さんは心を開かず、言葉はおろか目すら合わせようとしない。
妻は結局失意のままに街を去るのだが、その時に細い立ち木(この木のねじくれ方とかがまた絶妙)を見つめて立ち止まる。
「この木は何の木かしら…
 枯れてしまえば…何の木でもなくなるんだわ…」

この映画の中でおそらく一番不幸な少女、かつ子。
叔母夫婦に引き取られ、病気で入院中のおばの分まで必死に内職をして働くけなげな少女なのだが、理屈ばかりこねて飲んだくれて働こうとしない超ダメ人間のおじから性的虐待を受けて妊娠してしまう。
彼女に好意を持ち、親切にしてくれる酒屋の御用聞き・岡部をかつ子が刺すという事件が起こる。全く不可思議な事件におばはあわてるが、おじはレイプの事実発覚を恐れて警察に出向こうとはしない。かつ子は固く口を閉ざすのだが、岡部がかばってくれたこともあって釈放される。
その後、以前のように買い物帰りにすれ違う二人。岡部はかつ子を恨んでいないが、理由だけは知りたいと真意を問う。
自分でも分からない、と言いつつポツポツとかつ子が告白する。
魚屋で出刃包丁を盗み、本当は自殺することだけを考えていた。しかし
「私が死んだあと、岡部さんが私を忘れてしまうのが怖かった。だから刺してしまった」
のだと。
岡部は「ショックだなあ」と言いつつも、ごく軽い調子で「じゃ、また」と配達に去っていくのだが、二人の間の距離感がもはやもと通りではないことが画面から痛いほど伝わってくる。

これらの会話からは、物質面では死によって完結する人の"生"というものが、「他の誰かの記憶の中に残り、その誰かが生きている限り存続しうる」という側面を持つことが伝えられる。
つまり人情とか絆とか、情緒的な意味での陳腐な言い回しではなく、認識として「人は"完全に己だけ"では生きられない、生きたことにならない」ということだろうか。
だから妻を「認識すらしないように振る舞う」平さんは、まるで生気がないように映し出されるのだろうか。
ある意味哲学的でもあり、またこの上なくクールにも感じられる。

「現実と幻想」に関しては、ホームレス親子の父親と、そして六ちゃんの電車がもっとも分かりやすいものとして描かれる。
廃車の中で仕事もせずに暮らし、夢想の中でマイホームを作りながら、玄関はこう、門扉はこう…と、もっともらしいビジョンを語り続けるだけの父親。それに対して「うん、そうだね」「いいと思うよ」と、妙に大人びた物分かりのいい受け答えをする幼い息子。
話の内容や言い回しを聞くと、このホームレス父親の知的レベルは高く、かつては学歴もあったのだろうと思わせるものがある。ただそのプライドが邪魔をするのか、子供にだけ残飯漁りをさせて、自分は何もせず空想に浸り続けている。
息子は息子で別にその現状に不満があるふうでもなく、けなげに夜の裏街をめぐり続けながら、「夢想の家」の設計について相槌を打ち続ける。
「家」ですらない場所に住みながら、何もなさない父親にとって、「空想の家」はどのような意味を持つのか。終盤の「プールができたよー!」という彼の叫びには涙する人も、決定的に呆れる人もいると思う。
いずれにしろ彼の中で、息子と「空想の家」は、「それがあるから生きていられる」よすがのようなものであったことには違いない。
この作品ではかつ子のおじ(まあさすがに一緒にしては父親が哀れではあるのだが…)もそうだが、「知的レベルは高いが能書きだけで実際の順応力がない」人間のダメさ・いやらしさがもうこれでもかと描き出されていて、見ていてつらくなるほどだ。

ホームレス父親にとっての「家」が、少なからず現実逃避のシェルターとしての機能を持っていたのに対して、六ちゃんの「電車」は似ているようで違う。
六ちゃんの中で「電車」は現実のものであり、何かから逃げるために築き上げられたものではない。「どですかでん」と言いながら街を走るのは、あくまで彼にとって「仕事」なのだ。
ならばこの「電車」は何なのか、ということについてはまだまとまらないのだが、六ちゃんにとって「電車」そのものである以上、それ以上でも以下でもないと捕らえるのがもっとも無難な考え方なのかもしれない。
少なくとも映画では、「六ちゃん」は他のどのエピソードにも特に絡まないのだが、子供にいじめられたりするものの、街全体からは「そこにあるもの」として存在を許容され、何かを偽ったりシェルターに隠れたりせずに自分の生を無垢に生きることができる存在であることは分かる。
街の中をぐるぐる走り回り、車庫から電車を出すシーンから始まり、納めるシーンに終わるこの映画は、結局人々の生活は電車の運行のようにずっと巡りながら繰り返され、いいことばかりでもないが悪いことばかりでもない、ということを表現しているのだろうか。

それにしても、六ちゃんの電車を扱うシーン、特に発車や降車時のチェック風景はすべてパントマイムで行われるのだが、SEの助けがあるとはいえ実に巧みで、「ガラスの仮面」なら、「うっ!(ゴシゴシ)今本当に電車がそこにあるように見えたわ…」という感じ。
六ちゃんを演じるのは、「赤ひげ」で長次を熱演した頭師佳孝。ただでさえ難しい役回りだけにとにかく脱帽。

そんな「聖なる愚者」たる役割を持たされているかのような無垢な六ちゃんだが、彼自身はともかくとして、周辺は幸せなだけかと言えばそんなことはなく、悪ガキたちから家の壁に「電車ばか」と落書きされたのを消し、ひたすら天ぷらを揚げ続ける母親役の菅井きんのやるせない姿と言ったら。セリフが全然ないのだけど切なさがビシビシ伝わってくる。

黒澤映画初のカラー作品なのだが、よく指摘される通り、色彩は「鮮やか」を通り越して目に痛いほどコントラストがどぎつい。これも評価が分かれるところだろう。「カラーが使えるようになったことにはしゃぎ過ぎているのでは」という意見もよく見る。
壁一面が六ちゃんの描く電車の絵で埋め尽くされた彼の家などは、まるで「色の洪水」のようで、雑多な中にも趣を感じる。また、平さんの家の前のはためく布の美しさと切なさもカラーならではだろう。
あっけらかんと夫婦を交換しちゃう大工2人の家は、徹底的なまでに赤と黄色というテーマカラーが設けられ、服はもちろん洗面用具等にいたるまでとにかく赤か黄色。こんなに真っ赤な壁なんて、いくらバラック風の住居でもアリかい?と思うのだが、このへんにどこか、舞台演劇を意識したようなセット設計を感じる。
また、「テーマカラーを設けて所属等を分かりやすくする」手法は、のちの「乱」にも通じているように思われる。
舞台っぽいといえば、寝込んでからのホームレス親子の顔のメイクがあまりも怖い。舞台で遠目に見るにはちょうどいいのだろうけど、カラーだとほんと怖い。

役者の演技はみんな熱演で、力が入っていると思う。
平さんの役なんか、セリフがほとんどないのでけっこうきつかったんじゃないだろうか。
また、奈良岡朋子が醸し出す、慎み深そうな和服姿の中に渦巻くエロスが絶妙。
私が物心ついた頃には、奈良岡さんといえば「包容力のありそうなおっかさん」の役というイメージが出来上がっていたので、「まさか奈良岡さんにエロスを感じる経験をしようとは」という衝撃があった。古い映画を見るのはこういう体験があるから面白い。

今の目で見ると、若干職人の仕事内容などが分かりづらい点がある。
三波伸介の仕事はブラシを作る職人なのは辛うじて分かったのだが、平さんが何で生計を立てているのかがちょっとわからなかった。
古布を裂いて、織り機のようなもので何かを作っているのは分かるのだが…
原作について紹介しているサイトで「マットレスを作る職人」とあって、ようやく合点が行った。
なるほど昔は、古布で編んだ足ふきマットとかが売られてたなあ。あと、ハタキなんかも、化繊の古布を裂いたものでできてたような記憶がある。

公開後何十年もたってから、「好き嫌いが凄く分かれる作品」と知った上で見てもこのインパクトなのだから、当時封切で、「いつもの黒沢娯楽映画」を期待して見に行った人はさぞビックリしたんじゃないだろうか…と思う。
正直、見終わってすぐは、「うへぇ…」という感じでズーンと来て、好きか嫌いかで言えば嫌いよりだよなあ…と思っていたのだが、なんだか妙に考えこまされてしまう。不思議な映画だ。

これ多分、あと10年くらい年を取ってから見ると、また違った感想が湧いてくるような気がしてならない。
posted by 大道寺零(管理人) at 21:29 | Comment(4) | TrackBack(0) | 映画
この記事へのコメント
最近の黒沢映画シリーズレビューを楽しみにしてます。
某地で黒沢映画全集のDVDを買って持ってきてあるんですが、未だ見る勇気がなく
どっから見るかなあと悩んでます。

やっぱりオーソドックスに「生きる」あたりからがいいですかねえ?
Posted by satoyoco at 2009年01月20日 12:56
>>satoyocoさん

ありがとうございます。邦画に全然詳しくないど素人感想ですが、確かに見た後何かを語らせてしまうパワーがどの作品もあるように思っています。
BSでの全作品放送、なんとか逃さず録画コンプしたものの、見るのにもパワーがいる気がして、結局見ないでDVDに焼いてそれっきりのものも多く、まだ一部しか見てないんですよ;

前書いたように、「赤ひげ」「隠し砦」とか、「用心棒」シリーズあたりがお勧めかなあ?と個人的には思います。あとは収録時間を見て、「あんまり長くないのから」というのもアリかなと。
Posted by 大道寺零 at 2009年01月20日 22:15
画像の派手さと中身の暗さが、すさまじいコントラストですよね。

やはり「プールのある家」のエピソードが一番強烈に印象に残ってます。

あと伴淳のそこはかとない悲しさが・・・。
Posted by きたかZ at 2009年01月21日 18:14
>>きたかZさん

>画像の派手さと中身の暗さが、すさまじいコントラストですよね。

そうなんですよねー。かてて加えて、武光徹の、あのいかにもハートウォーミング系の音楽がまた、なんとも言えない切なさを加速させるように思います。なんかこう、音楽だけ聞いてると、みんなそれなりに幸せになってホンワカ終わるような感じなんですよね…

>伴淳

あの話もまた切なかったですね。島さんの顔面がひきつる(というか半身麻痺気味?)演技も凄すぎます。現在だったらとても「自主規制」がかかって撮れなさそう…確実に設定そのものがオミットされるでしょうね。伴淳の役作りの凄さに圧倒されます。
あの場面は、下川辰平さんたちも、居心地は悪いわキレられるわで、心中お察ししてしまいますねえ。
Posted by 大道寺零 at 2009年01月22日 01:38
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