2009年01月27日

「乱」(1985年)映画

「影武者」にイマイチ入り込めなかったのに対して、「乱」はけっこう好きだったりする。ベースとなった「リア王」という作品の力、シェイクスピアの力も多分にあるのかもしれない、とは思うのだが。

[ストーリー]

架空の戦国武将・一文字秀虎とその3人の息子が主軸となって描かれる。

一文字秀虎はかつて近隣の武家を征服し、カリスマで知られた猛将だが、時間の流れには勝てず、老いを自他ともに認めるようになっていた。
太郎・次郎・三郎の三人の息子たちに三つの城を譲って自分は引退し、太郎を頭領として、兄弟力を合わせ、一文字家を盛りたてていくようにと宣言する。
しかし三郎は兄たちの性格や野心を思い、「助け合うどころか争い事が起こって家が滅びるだけだ」と父の達しを否定し、来賓や家臣のいる前で「父上は耄碌した」と言い放ち、3人の和を説くために用いられた「三本の矢」を力ずくで折ってしまう。
秀虎は激怒し、その場で三郎と側近の平山丹後を勘当する。
行くあてもなくなった三郎だが、その場に居合わせた藤巻家の主に潔さを気に入られて婿養子となった。

太郎が主となった「一の城」でのんびりと隠居生活を始める秀虎。しかしいまだに「主君」として扱われる父親への不快感から、太郎と秀虎の関係は次第にギスギスとし、「全権を自分に譲り、秀虎は分をわきまえるように」と要求するに至って、秀虎は立腹し、次郎のいる二の城へ向かう。
この不和を煽ったのは太郎の正室・楓の方(原田美枝子)だった。楓はかつてこの一の城を拠点とする武将の娘だったが、城は秀虎に滅ぼされ、両親も殺されたという恨みがあった。彼女は因縁深い自分の故郷に帰ってきたということになる。一文字家に対する恨みを捨てていない楓は、「秀虎が太郎をないがしろにしている」という強迫観念を植え付け、一家の崩壊へと扇動していく。

二の城の次郎もまた、秀虎を迎えてはくれなかった。次郎とその部下たちはゆくゆく太郎を打倒して一の城と家督を手に入れることを望み、太郎同様に秀虎の影響力を恐れていたため、ひとまずは太郎に同調した。「秀虎だけならば迎え入れるが、家来まで受け入れることはできない」という条件を出され、部下を路頭に迷わせるには忍びない秀虎は、仕方なしに三の城へと向かう。
しかし三の城も太郎と次郎の手勢に囲まれて攻められ、秀虎についてきた家来たちは、道化の狂阿彌(ピーター)を除いて討ち死にしてしまう。自害しようとする秀虎だが、刀が折れて果たせず、絶望のうちに狂気に至る。
狂人と化した秀虎は命だけは許され、狂阿彌と共に荒野を彷徨い、三郎の部下・丹後と合流。やがて廃城にたどりついて夜露をしのぐようになる。

三の城の戦いの中、次郎の部下・鉄(くろがね)が太郎を射殺し、次郎が一文字家の当主となる。
太郎を失って未亡人となった楓は即座に色仕掛けで次郎を籠絡。自分が正室になるために次郎の正室・末の方を追放させ死を迫るなど我が物顔でふるまい、一文字家を操ろうとする。鉄は次郎に楓の危険さを説くのだが聞き入れられない。

父の現状を知った三郎は軍勢を率いて次郎軍に対峙。そこには三郎を見守りつつ睨みを利かせる舅の藤巻・漁夫の利を狙う隣国の綾部の軍もいた。
三郎はできるだけ穏便に秀虎の身柄を受け取ろうとするが、楓にそそのかされた次郎の決断により結局合戦になってしまう。

三郎は次郎軍を巧妙に突破し、秀虎と再会を果たす。正気を取り戻しつつあった秀虎も覚醒し、「本当に秀虎と家のことを思っていたのは誰であったか」に気づき、ようやく親子の温かい会話が交わされるのだが、一発の銃弾で三郎は落命。秀虎も嘆きと絶望と後悔の中で死んでしまう。



「三本の矢」の教えを守り、優秀な三人が力を合わせて家を守ろうとした毛利元就の息子たち。「その三人がもしエゴむき出しで力を合わせず反目したら?」というのがこの映画の発想の源で、それに「リア王」のストーリーを組み合わせたのだという。「ようやく父と子の真情が伝わるものの、それが死(しかも本来与えられなくていいはずの死に方)によって無情に切断される」ラストもまさにリア王そのものだ。

「影武者」につづき海外合作もの、そしてこの時期「世界のクロサワ」の名声が揺るぎないものになっていることもあり、多分に「世界で上映展開する」ことも考慮に入れてあったのだろうか。実際どうだったかは知らないのだが、その点においては成功しているだろうと思う点がいくつかある。

まずは、太郎・次郎・三郎が、それぞれ衣装や旗の色を徹底して
太郎=黄色
次郎=赤
三郎=青
に分けている点。これはあまり分かりやす過ぎて、日本人の目から見ると逆にバカにされてるような気までしてくるかもしれないが、常に定点カメラで舞台を正面から撮ったような遠目に引いた場面が多く、役者の顔に寄ったカットが極端に少ない=場面によっては、今行動してるのが太郎なんだか次郎なんだかわからんというシーンが多いこの映画にあっては、この分かりやすさは効果的だと思う。
「もしこの映画がモノクロだったら…」と考えてみると、これはもう、相当わけわからんものになっていたんじゃないだろうか。
日本人でさえそうなのだから、外国人にしてみればこのぐらいのヘルプがないと相当きつかったのではないかと思うのだが…
ちなみに旗頭のマークも、
太郎=○の中に1本線
次郎=二本線
三郎=三本線
となっており、合戦のシーンでも兄弟の順がわかるようになっていて超親切設計。

また、主人公を架空の武将(ちなみに「一文字」という氏は、毛利家の家紋「一文字に三ツ星」から発想したらしい)とし、同時代の他の武将をからめずシンプルなストーリーにしたのも成功していると思う。
「影武者」では、信長や家康はストーリー上必要だが、申し訳程度に謙信がちょこっと顔を出していて、これも外国人から見れば訳が分からなかったんじゃないかと思うので。まあそこまで配慮する必要もないのだが、このくらいシンプルにして、各キャラの主要な人物関係に焦点を絞ったのは吉と感じた。

キャラクターの衣装に能衣装などを取り入れたのは、裏を返せば考証的には「リアリズムの希薄化(本来そのTPOで見に付けているはずのない衣装を着ている)」でもあり、結果やや「まぶしすぎる」ように見えるのには好き嫌い・賛否があるところなのだろうが、結果的にはワダエミ(ひな人形のCMでいまだに名前が出る)がアカデミー衣装デザイン賞を受けるなど評価につながった。

主役の仲代達矢の目力溢れる演技は、老いてなおカリスマ性を持つ秀虎にベストマッチしていた。発狂後のメイクは舞台化粧そのもので、映画として見るといささか大げさで濃すぎるようにも見えるのだが、舞台経験豊富な人だけにあまり違和感がなく、負けていない。前作「影武者」では「勝新だったら…」とあちこちで言われてちょっと可哀想だった(であろう)仲代達矢の面目躍如という感じ。
ありえないこと(「影武者」でピンチヒッターになったきっかけはそもそも、「乱」の主役に内定していたことなので)ではあるが、秀虎を勝新が演じていたら…と逆転空想すると、これはどうにも噛み合わない。勝新だとどうしても「現役バリバリ感」が出すぎて、「あんたが戦えばきっと寺尾聰には余裕で勝つでしょ」という感じになりそうだし、あの「老いの悲哀」の表現には至らないと思う。

道化の小姓・狂阿彌役のピーターは、正直(この頃は)あまり上手くなくて、「リア王」の肝である「道化だからこそ真実を突ける」数々のセリフも浮いている場面が多いのだが、熱演は買いたい。狂阿彌自身も別に秀虎を心底好きとか敬服しているというわけではない(悪しざまに言うセリフもけっこうある)のだけど見捨てられない気持ち、「介護」のしんどさはよく伝わってきた。
正直、「セリフで語らせている」場面が多く、ピーター本人と言うよりは脚本とか演出の問題なのかも?とも思う。
個人的には、せっかくピーターを使うのだから、もっと両性的な魅力を引き出してほしかったかも。

役者の印象としては、既に書いたように「顔のショットが極端に少ない」ので語るのが難しいのだが、「若手(あくまで当時)陣の演技が概してピンと来ない、魅力や印象が薄い」と思った。寺尾聰あたりも「別にこれといって…」という感じだし…
末の方の宮崎美子に至っては、あまりに引きの絵が多く出番も少なめだったので、エンドロールを見て初めて「え?宮崎美子だったの?」と思ったくらい(これは宮崎美子のせいではないけども)。

その中にあって圧倒的な存在感を放つのが原田美枝子の熱演だった。「蜘蛛巣城」の山田五十鈴と比較されるとさすがに分が悪いが、この映画の中では圧倒的で、頑張っていると思う。公開当時わずか25歳と後から知って驚いた。
楓役が彼女でなかったら…と想像してみると、この映画は相当薄っぺらな感じになってしまっていたんじゃないだろうか。
当時を振り返っての原田氏のインタビューでは、「意気込みは十分にあったがまだまだだった」と謙虚な弁。

ZAKZAK

 黒澤明監督の「乱」に25歳で出演したときは、黒澤さんの「蜘蛛巣城」の山田五十鈴さんを超えようと本気で思ってました。でも、試写を見たら愕然(がくぜん)としました。

 五十鈴さんはいるだけで空間を自分のものにしていたのに、映像の中の私には女としての太さが全然なかった。「蜘蛛巣城」に出演していたころの五十鈴さんが40代だったこともあって、「生きるしかない。人間として大きくならなければ」って痛感しました。

 演技に納得がいってないのを黒澤さんに伝えたら、「あれはあれでいいんだよ」といわれました。全身全霊でぶつかっていった私を黒澤さんは包んでくれたんですね。


「女としての太さ」という表現が絶妙。でも、「全身全霊で役にぶつかった」意気込みは十分に伝わっていると思うのですよ、原田さん。

「女性の描写力が弱い」という弱点をしばしば挙げられる黒澤映画だが、「自らの業を否定せずに、業のまま押し出して生きる」タイプの女性キャラクターには結構迫力があると思う。「赤ひげ」の香川京子なんかも、出番は少ないのにゾクッとするような業の色香がある。最もこの辺は女優さんの力量や資質によるものも多いのだが…
「乱」の楓も間違いなくこのタイプ。
この手の女だと描写が冴える…というのは、黒澤監督は基本的に女性嫌いというか女性不信なんじゃないかとひそかに考えているのだけど、実際どうだったんだろう。

末の弟、かつて秀虎によって滅ぼされた武家の男子で、盲目の青年を演じた「野村武司」は、現在の野村萬斎。出番は少なく、セリフらしいセリフもないのだがさすがの存在感があり、寂寥感ただようラストシーンでの無言の演技は素晴らしい。

何度か「引いた視点」に触れているが、それ以外にも、「人間の営みを見下ろす神の視点」を意識し、望遠で遠くからとらえたシーンが意図的に用いられている。
画面ズーム的な意味で言えば、本来は「影武者」同様、ビデオを家庭用TVで見るのではなく、映画館のスクリーン、最低でも大画面プロジェクター等で見てこそ初めて語れる作品なのかもしれない(映画全般に同じことが言えるわけだが、後期黒澤映画は特に)。というかそもそも、黒澤監督は、家庭用テレビサイズで視聴されることなど最初から念頭に置いていないのだろうと思うし。
posted by 大道寺零(管理人) at 14:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:[基本的に空欄を推奨します。詳細はこちらをご覧ください。]

ホームページアドレス:

(コメント投稿後、表示に反映されるまで時間がかかる場合がございますのでご了承の上、重複投稿にご注意ください。)
コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。