この映画も、「社会派」という概要説明からは別に泣ける内容などと全然思わずに観たら直撃を食らった。志村喬と左卜全に完全にやられた。
無責任・無根拠の、売らんかなのスキャンダル記事で他人の名誉を傷つけて顧みないマスコミの暴挙に憤慨した黒澤明が企画したという逸話で知られる映画。その憤りがストレートすぎるほどストレートに出ている。
60年近くたった今でも、マスコミの腐敗した体質に全く改善・進歩がないという事実にハッとさせられる場面が多い。
とある山を描きに訪れた新進画家・青江一郎(三船敏郎)。数時間に1本しかないバスを逃して歩いてきた美女(山口淑子)と出会う。慣れない山道に疲労困憊の彼女を気遣い、自分のオートバイの後ろに乗せて温泉宿まで送るのだが、その様子を見た雑誌カメラマン(トップ屋?)から後をつけられる。青江が乗せた美女は人気歌手・西条美也子だった。カメラマンはゴシップのネタを求めて旅館まで忍びより、旅の気安さから彼女の部屋を訪ねて雑談をする青江と美也子の2ショット写真を盗撮。
その写真を見た雑誌「アムール」の編集長・堀(小澤榮=小沢栄太郎)は色めき立ち、「裏を取るべき」という意見も無視して、「愛のお忍び旅行」「恋はオートバイに乗って」事実無根のゴシップ記事を掲載する。思惑通り雑誌「アムール」は飛ぶように売れた。
青江は抗議のためにアムール社を訪れるが、憤り余って堀を殴り飛ばしてしまう。当然それがまた記事になり、青江と堀のところには各マスコミが入れ替わりにインタビューにやってくる。
スキャンダル効果で個展は大盛況になるが、「誰も絵など見ていない」と苦々しい青江。一方美也子のもとには非難の手紙が殺到し、精神的に参ってリサイタルを中止してしまう。
業を煮やした青江は堀を告訴する決意を固める。
ある夜、青江のアトリエに風変わりな初老の男・蛭田(志村喬)が訪れる。話を聞けば彼は弁護士で、一連のスキャンダル騒動に義憤を感じ、自ら青江の弁護を申し出てきたのだ。
青江の専属モデル兼世話焼き係のすみえ(千石規子)は、風采が上がらず、裏もありそうな蛭田を不審がるのだが、興味を覚えた青江は蛭田の自宅と事務所を訪ねる。
貧しい自宅にいたのは、結核で床に伏せった蛭田の娘・正子(桂木洋子)だった。過酷な境遇にも関わらず、天使のような純真さと優しさを持つ正子にどこか心打たれた青江。無人のみすぼらしい事務所の中に飾られた正子の写真に何か感じるものがあった青江は、蛭田に弁護を依頼する。
親の反対を押し切り、美也子も青江とともに原告として法廷に立つことを決意した。
正子の治療のためにどうあっても金の欲しい蛭田。被告となる堀のところへ行き、上手く立ち回って両者からうまく金をせしめようとするのだが、逆に賭博好きにつけ込まれて借りを作り、買収されてしまう。
「自分は堀のような悪ではないが弱くてずるい、ダメな人間だ」と良心にさいなまれる蛭田の全てを恕す正子の優しさに号泣する蛭田。
決定的な買収をされて蛭田が家に帰ると、そこでは青江が正子のためにツリーや飾りを持ちこんでのクリスマスパーティーが行われていた。オルガンを弾く青江、「きよしこの夜」を歌う美也子、手製の飾りを頭にかぶって微笑む正子、それを優しく見守る妻、貧しい家の中で4人がそれぞれに美しい。
それに比べて自分という男がなんとあさましく価値のないことか。蛭田はたまらず「俺は…ウジ虫だー!」と叫んで、夜の街へと走り去ってしまう。追う青江。
青江と蛭田が入ったとある酒場で登場する、見も知らぬ酔っ払いの男が左卜全。酔いに任せて「今年の俺はロクなもんじゃなかったが、新しい年がくる。来年こそは頑張ろう!」と大声でわめき、「蛍の光」をがなって歌う…というだけの役割なのだが、こここそが名場面。詳しくは書かないので是非見てほしい。
その酒場を引き上げて二人とも千鳥足で蛭田の家まで戻る。ドブ川に反射して光る星を見て、青江が言う。
「このドブと同じように、あんたはウジ虫かもしれないが、あんたには正子さんという美しいお星様がいるじゃないか」
「正子を…正子を星と言ってくれるのか…!」と泣きに泣く蛭田。
年が明けて裁判が始まる。
クリスマスのやり取りで、正義感と人間の誇りに目覚めたかと思われた蛭田だが、買収の事実が彼を絡め取り、まともな弁護を行わず、青江は窮地に立たされる。新聞も連日弁護人の無能を嘲笑い、原告団は完全にピエロと化していた。
原告圧倒的に不利のまま結審しようとするのだが…
最初蛭田弁護士は単なる1キャラクター程度の位置づけであったが、脚本を練っていくうちに「勝手に動き出して存在感を放ち始めた」というのもうなずける。そのくらい奥行きと味わいがある役柄で、後半は正直、蛭田が主人公と言ってもいいだろう。
自分の心の弱さと正義、受け取ってしまった金との狭間でのたうち回り、娘の純真さに赦されれば赦されるほど苦しむ姿は、時代を問わず心に訴えかけてくるものがあり、志村喬ならではの名演技だ。
季節が冬で、クリスマスが登場することもあり、切り口は違うけれども、「黒澤明流の"クリスマス・キャロル"なのかも?」と思わせる作品に仕上がっている…ようにも思える。
最初三船敏郎の数シーンを見た時には、「少なからず大根チック?」かとも感じたのだが、青年画家・青江と実年齢が近い(当時30歳)こともあって、話が進むにつれて「まっすぐな正義感を貫く若き芸術家」の語り口はこうもあろう、と違和感なく思えてくる。青江の演技はこのぐらいステロタイプな正義漢でいいんじゃないかと。
山口淑子の美しさ、鈴を振るような歌声は言うに及ばず、桂木洋子(黛敏郎の妻・黛りんたろうの母。故人)がとにかく純真可憐で、「天使が間違って人間に生まれてきたような」正子そのもの。ちょうどwikipediaの彼女の項に掲載されている写真が、まさに「醜聞」のクリスマスのシーンのもの。動いてるともっと可愛いんだぜ…
この映画で一番好きなキャラクターが、すみえ役の千石規子。
青江のアトリエに出入りする絵画モデルで、男やもめの世話を何くれとなく焼く理解者。子供がいてちょっと訳あり風だが明るくて図太く、青江に変な秋波を送ったりしないところがいい。
美人という訳ではないが、とにかく誰よりも、彼女が出てくるとなんだかホッとさせられる役どころ。
出番が少ないが、蛭田の妻を演じる北林谷榮さんの存在感も流石で、一つ一つのまなざしや仕草に、家族への優しさがにじみ出ている。「となりのトトロ」のおばあちゃん役と言えば今では一番通りがいいだろうか。
今ではお二人とも「味のあるお婆ちゃん役」で知られているが、若い頃はこんな感じだったんだなあ…としみじみ。
ラストシーンでは、雑踏の中、外壁に貼られた青江と美也子のスキャンダルを煽るポスターが、誰にも顧みられぬままボロボロに風化した様子が映し出されて幕となる。
その場面は、青江たちの醜聞が忘れ去られていく様子を象徴し、それは裁判の結果というよりも単に「彼らのスキャンダルの話題価値」が消費され尽くし、移り気な民衆が次の「獲物」に興味を移していったにすぎないこと、民衆の覗き趣味やマスコミの下世話さがある限り、同じような事件がずっと続いていくのだ…ということを語っているように見える。
ゴシップ誌というと、現在の写真週刊誌やスポーツ新聞の芸能欄、アサヒ芸能とか実話●●のような下世話なカテゴリの雑誌が想像されるのだが、終戦直後当時はジャンク感溢れる「カストリ雑誌文化」がヤケクソ気味に咲き誇った時期であり、恐らく「アムール」のような雑誌は、今想像するよりももっともっと下世話なものだったのだろう。
当時のカストリ系雑誌は、今や戦後風俗をダイレクトに物語るジャンルとして収集物としても人気があり、現物もよくネットオークションなどで取引されている。
以前あるエントリを書くために、いくつか表紙・本文の写真などを色々眺めてみたのだが、いやもうほんとに何でもアリ、「見てきたようなインチキ」やどぎつい煽り文句、針小棒大のゴシップなどなど、怪しさ爆発といった感じだった(そしてそこが最大の魅力でもある)。
そうした背景をおさえておくと、アムール社や堀の胡散臭さのイメージも膨らむと思う。
公開時の1950年と言えば、終戦からまだ5年しか経っていない。
正直なところ、「5年でこんなに復興したのか…」と驚いた。
クリスマスという風習も、1950年にこんなに一般化していたとは思わなかった。私の中の終戦5年後のイメージは、もっともっと焼け野原なのかという感じだった。
街の様子や道行く人の服装も想像したよりも豊かで、それだけたくましく復興が行われたのだろうな〜…と、なんだかあさっての方向に感じ入ってしまったのだった。
その一方で、青江がオートバイでやってくると、その辺で遊んでいた子供たちがみんなそっちに集中し、一斉に追いかけるというシーンが、「やっぱり昔なんだな〜」と思わせた。
昔の邦画を見ていると、よく同じように子供たちが車とかオートバイを追いかける場面が出てくるのだが、あれはまだ珍しかったからなのだろうか、それとも「子供の世界のお約束」だったのだろうか。
ともあれ、バイクに乗る三船敏郎のカッコよさは間違いなくガチ。
私の中の三船ベストシーンは、バイクにでっかいクリスマスツリーをくくりつけて蛭田家に向かい(今だったら過積載でパクられるんだろうな)、「青江さん?」と言われたところに、「違います!サンタクロースです!」と言ってニコニコと入っていく場面。
さわやかすぎる…というか、なんとも可愛いんだ三船。
この映画を見た後、「お店のクロージングや卒業式(最近はあんまり謳わなくなったらしいけど)の歌」でしかなかった「蛍の光」が、これまでとはまるで違って聞こえるようになったという人は多いのではないだろうか。
日本では「シメの歌」「別れの歌」として用いられることが多いこの曲が、この映画では「心機一転の旅立ちの決意の歌」という意味をも持っているのが面白い。
展開としては単純で、メッセージやセリフがあまりに「生」すぎて青臭い、ラストの三船敏郎の言葉を含めてファンタジーにすぎるという評価もよく聞くのだが、私はこのど直球が好きだと思った。
不幸にも、テーマ自体はまったく現在でも古びていないのだが、逆に今の世の中で同じテーマで作劇、あるいはリメイクしたとしても、これほど直球な作品は作れないような気もする。
内容的には分かりやすいので中学生くらいでも十分理解できるのだが、時代背景的に、爺ちゃん婆ちゃんと一緒でないと理解できないところもあるだろう。
「なんで映画館で報道ニュースが流れるの?」とか…
案内役の山本晋也が指摘していたが、青江らを写すフィルムカメラの動力がゼンマイだったのにはびっくりした。この映画に限らないが、古い邦画は当時の風俗や流行、科学技術の絶好の資料なんだねえ。
この映画、ひとかけらも観ていないというのに
なぜかうっすら涙目で読んでしまいました。
「今年の俺はロクなもんじゃなかったが、
新しい年がくる。来年こそは頑張ろう!」
ああ、なんていい台詞なんだろう。
絶対見よう、と思いました。
コメントありがとうございます。
いつもあらすじとか、できるだけコンパクトにしようしようと思いつつ、書いているうちに長くなってしまって「ワシってダメなやつ…」と凹みがちになってしまうのですが、読んでいただけて嬉しいです。
酒場のシーンは本当に最高でして、セリフも相当要約しているのですが、実にいいです。名もない酒場の人たちのそれぞれの表情が素晴らしいです。
青臭さと、今では気恥ずかしくなるほどの直球な作品ですが、そういう路線がお嫌いでなければ楽しんでいただける作品だと思います。
そうそう、歌姫・美也子役を演じる山口淑子さんは、ミュージカルやドラマ化された波瀾万丈の人生で知られる「李香蘭」その人です。本当に綺麗なのですよー。
昭和一ケタの父がよく言うには
子供のころ車やオートバイが通ると排気の匂いを嗅ぎに行ったと言い、私も'60年代、スーパーカブにそんな匂いの記憶があります。
>子供のころ車やオートバイが通ると排気の匂いを嗅ぎに行ったと言い、私も'60年代、スーパーカブにそんな匂いの記憶があります。
おお!貴重なお話ありがとうございます!
予想していたよりもはるかにシンプルな理由だったのですね…
私も小さい頃、排気ではないんですが、ガソリンの匂いは妙に好きだったかも…