よく言われることだが、「他人が見た夢の話をされることほど苦痛なことはない」のである。よっぽど面白いか、話が上手な人でないかぎりは。
何しろ夢なので、起承転結も何もあったものではなく、話の流れがメチャクチャで整合性などない場合が多い。さらには、「本人の中にはイメージが残っているが、それを他者に伝えきれなくて説明がグチャグチャになる」「頭の中のビジュアルイメージを言葉に変換しきれない」といった問題もある。
しかしその中からインパクトのある題材を選びぬいて、力のあるクリエイターが作品に連結させると、時に独特の浮遊感・非現実感・不条理感・ブツ切り感が効果的に作用して、とてつもない名作が生まれる場合もある。
漱石の「夢十夜」などがその例だろう。
で、この「夢」についても、最初からストーリー整合性の枠など取っ払って、不条理に溢れる「イメージの洪水」に身を委ねよう…というつもりで見たのだけど、ちょっと肩すかしだった。
その理由の一つは、「話としてそこそこ整合性が立っていて(思想や主張はむしろ、他の作品よりもストレートでうるさく感じるほど)、それでいてリアリティがあるわけでなく、妙に中途半端」に感じたということ。もっと不条理なら不条理に徹したほうが面白かったようにも思う。
もう一つは、パートによって幻想譚だったり、時にホラーだったり、パニックもの・ディストピアものの趣をそれぞれに持っているのだが、何しろ公開が1990年である。これをわざわざ身に来る年齢層のファンは、それぞれのジャンルについて、「もっと面白くてよくできた作品(映画に限らず)」を大抵どこかで見てきていて、無意識にそれと比べてしまったり、「どっかで見た絵」と感じてしまうことがある。不幸にして私はそう思ってしまった。
例えば、原子力発電所が爆発し、富士山が噴火して人々が逃げ惑う…というようなシーンについても、「●●年前のあの特撮映画の方がよく出来ていた。"世界の黒澤"が、しかも平成になってから撮った絵がこの程度??」という感想が真っ先に出てきてしまったのだった。
そして何より、この映画は「ズルい」。
上記に挙げたような、所々の、しかし明確な不満や「こんなものなの?」という疑問が生じても、「だってこういう夢を見たというのだから仕方がない」の一言で全てケリが付けられてしまい、個々人が感じた不完全燃焼感のやり場があらかじめ奪われている。そして「夢じゃしょうがないけど…」とさらに燻ってしまう。そんな感想を持たれた方もいらっしゃるのではないかなー。
以下8編のうちいくつかには、黒澤明自身とおぼしき「私」(寺尾聰)が共通して登場する。
1:日照り雨
突然の天気雨。母から「こんな日には狐の嫁入りがある。狐はそれを見られるのをとても嫌うから外に行ってはダメ」と言い聞かされたにもかかわらず森に行った少年(=私)。狐の嫁入り行列に出くわして恐る恐る眺めるのだが、見つけられてしまう。
逃げるようにして家に帰ると、母は門から中に入れてくれず、
「狐の一行が来て、"死んで詫びろ"という意味で短刀を置いて行った」「すぐに狐のところに行って死ぬ気で詫びて来い」と追い出される。「虹のたもとに狐たちがいる」と言われた通りに、虹の下まで来た少年。
ここで唐突に1話が終わる。
狐の行列が、怖さとユーモラスな部分を併せ持っており面白い。この1話は結構好きだ。ラストがブツ切りなのも夢らしいし、「本来味方になってくれるはずの親や友達がやたらに無慈悲」だったりするのも、子供の夢の中ではよくあることのように思うので。
虹のたもとの風景がビビッドに美しい。
2:桃畑
雛祭りの日。姉の元に少女たちが遊びに来るのだが、最初は5人いたはずが4人しかおらず、姉も「最初から4人しかいない」と言う。あと一人の、桃色の服を着た女の子の姿が見え隠れするが、少年(私)の目にしか見えない。
彼女を追って行くと、少年の家の桃畑に出た。段々になっている畑に現れたのは、段飾りで言えば5セット分にもなろうかという、生きたひな人形たちだった。
少年の家では畑の桃の木を全て伐採してしまい、それに怒った雛たちは、「もうお前の家のひな祭りには行ってやらん」と責める。しかし少年は心から桃の木と花を愛し、惜しんでいた。その優しさに感じ入った雛たちは、楽にのせて華麗な舞を少年に披露する。
段々畑が雛段に見立てられ、とにかく美しい。

1話同様、民話を思わせるフォーマットでとっつきやすく、これもわりと好き。生き雛たちの衣装と踊りの華麗さは圧倒的で、素直に感動する。
雛たちは5セット分くらいいるのだが、髪飾りや衣装、立ち方などで、それぞれに時代や種類が違うものが混ざっており、ひな人形好きにはかなり楽しいビジュアルだろう。
3:雪あらし
雪山登山中、吹雪に閉ざされて気力と体力が尽きる寸前の私(寺尾聰)と3人の仲間たち。他の隊員を励ましながらも力尽きて倒れる私のもとに、白い着物の雪女(原田美枝子)が現れ、「雪は暖かい…氷は暑い…」と呟きながら、布団のようなものをかけてくれる。
雪女の顔がアップになり、険しい表情になったかと思うと強風の中に消えた。
私が意識を取り戻すと、周りは晴れ渡っており、しかも眼前にはアタックキャンプがあった。隊員も無事だった。
雪山を彷徨う部分がちょっとダラダラとしており、一度寝落ちしてしまった。原田美枝子は相変わらずキレイで雰囲気もあるのだが、雪女が「私」を殺そうとしたのか助けようとしたのか全然伝わってこない。わざと説明を省いたのだろうけども…
「雪女譚」として見ても凡庸で、もうちょっと捻りようがあったんじゃ?と思う。でもそういう夢だったのなら仕方がない…
4:トンネル
復員兵の姿で人気のない道を歩く私(寺尾聰)。トンネルの前に差し掛かると、1匹の黒い犬が私に吠えかかる。獰猛な姿と、腹部にいくつかの手榴弾をくくりつけられていることから見て、どうやら軍用犬のようだ。
犬に駆り立てられて真っ暗なトンネルを抜けると、後方から青い顔をした男がやってくる。
私が戦争中に隊長を勤めた中隊にいた野口一等兵(頭師佳孝)だった。すでに戦死した男だが、彼は自分の死を認識できていない。
私が事実を話し、説得すると、野口は再びトンネルの中に去っていく。
すると今度は夥しい足音と共に、野口同様に青い顔をした兵隊たちが行進してきて私に敬礼する。彼らもまた、既に死んだ部下たちだった。やはり死の事実を告げ、「みんなの気持ちは分かるが、静かに眠ってくれ」と"回れ右"の号令をかけると、彼らも素直にトンネルに去って行った。
しかし先ほどの黒い犬だけが残り、私を責めるかのように激しく吠えたてるのだった。
「どですかでん」でもそうなのだが、「死んだ人」「死にそうな人」に対してこんなに極端な色でペイントせんでも…と思うのだが、これもクロサワ流儀なのだろうか。兵隊たちの顔が、水色のポスターカラーを思い起こさせるくらいの極端な青で、滑稽でもあり、それゆえにホラーでもある。映画館に連れてこられた子供がいたら確実に吹くだろう。
「自分の死を認識できていない死者」がゆかりのある人の前に現れる、というのは、能によく登場するシチュエーションだな、とも思った。
黒澤明は兵役についておらず、「その罪悪感の表現」と評されることの多いパート(とはいえ、その間戦意高揚のための映画を作らされていたりしたので、単純な徴兵逃れとはいえないのだが)。「黒い犬」が何を表現しているか、という点がしばしば議論の対象となる。あまり詮索せずに、「そういう夢だった」と流すべきなのか。
個人的には、旧日本軍の軍犬がこのように手榴弾を装備していたのかどうかが気になる。旧ソ軍では、爆薬をくくりつけて戦車の腹に潜り込ませる地雷犬が実在していたそうだが…
5:鴉
美術館でゴッホの絵を眺めていた私(寺尾聰)(画学生か絵描きを思わせる風貌)は、いつのまにか「アルルのはね橋」の絵の中に入っていた。はね橋のたもとで洗濯する女たちにゴッホの行方を尋ね、いくつもの絵の中を通りながらゴッホを追う私。
ようやく追いついた麦畑にゴッホ(マーティン・スコセッシ)がいた。それは「鴉のいる麦畑」の風景そのものだった。
絵についていくつかの会話を交わした後、ゴッホはどこともなく消えてしまい、絵の中を彷徨う私も元の美術館に戻る。
はね橋の女たちとの会話はフランス語なのに、ゴッホ(オランダ人)との会話となるとなぜか英語となるのに激しく違和感。どういう経緯でスコセッシがゴッホ役で出演したのかは知らんけども、そのあたりもうちょっと本気を見せてほしかった。
とはいえこれも、「夢の中だから」と言われればぐうの音も出ない疑問点ではあるのだが(夢では、外人となんなく意思疎通できてしまうようなこともあるし…)。
ゴッホの絵と実写映像の合成コラボレーションは確かに目を引きつけられるのだが、「絵の中に入る」という発想はちょっと手垢が付いているような感じもする。
具体的には、石森章太郎の「ファンタジーワールド・ジュン」において、主人公ジュンがマグリットらの絵の中に入り込む幻想世界の描写を一番に思いだした。この作品の発表は1960年代後半であり、メディアは大きく違うけれども、「石森章太郎が大昔に『ジュン』で通り過ぎてやりおおせた表現だよなぁ」という印象が強く、あまり新鮮味を感じることができなかった。
余談になるが、黒澤明が「画家になりたかった映画監督」であるのに対し、石森章太郎は「映画監督になりたかった漫画家」だった。両者の発想が一部交差するという因縁は興味深く感じる。
ゴッホの「鴉のいる麦畑」は長らく「最後の作品」と言われていたが、近年の研究ではそうではないという説が有力。しかしきっと黒澤は、「遺作」として捕らえて作っていたのだと思う。「残された時間が少ない」というゴッホのセリフにも呼応しているし。
6:赤冨士
次に私(寺尾聰)の眼前に広がるのは、パニック状態で逃げ惑う群衆。見れば富士山が真っ赤に燃えて噴火している。驚く私に、傍らの子連れの女(根岸季衣)と男(井川比佐志)が、「原子力発電所が6つ爆発した」とさらに最悪の事態を告げる。
続く場面では、私を含む3人と、女の子供のみがその場に立ち尽くす。他の群衆は、放射性物質から逃れようと海に飛び込み死んでしまったという。
万一の事故のために、危険な放射性物質にはそれと分かるように色を付けておいたのだが、その色が少しずつ迫ってくることでさらに恐怖と絶望が高まる。
「作る時だけあんなに"原発は安全です"って言っていたのに!」
「大人はいいよ、生きるだけ生きたんだから…でも子どもたちはどうなるのさ!」
「こんな原発を作ったやつらが許せない」
と叫ぶ女。
実は男その人が、その原発建設に携わった人間だった。せめてもの罪滅ぼしなのか、断崖から海に身を躍らせる男。
特撮的部分が上手くないのと、「アンチ原発メッセージ」があまりにもモロに出すぎていて、ちょっと失笑せざるを得ないエピソード。直球メッセージは黒澤明のお家芸だが、役者の演技なり、絵なりで表現しているからいいのであって、こんなにセリフだけでドバドバと語られてはどうしても興が冷めてしまう。
井川比佐志が、着色放射性物質が迫るシーンで、妙に細かく
「あの赤いのはプルトニウム239、あれを吸い込むと1千万分の1gでも癌に…」と説明するシーンも、妙に浮いている。
7:鬼哭
核戦争の影響で荒廃し、奇形化した生物が棲むようになった地球。彷徨う私(寺尾聰)は、1本角が生えた鬼(いかりや長介)と出会う。彼の姿も、巨大なタンポポも、すべては核の影響によるものだった。
鬼の世界にも角の数で階級があり、それに従って鬼同士で共食いをするのだという。その鬼たちが血の池の周りに集まって、痛みに慟哭する姿を見る私。1本角の鬼の様子もおかしくなり、啼きながらうめき始める。
前のエピソードから世界観が連続しているようにも見えるパート。
核の影響の恐ろしさと、「鬼」という民話・説話的なイメージを噛み合わせているのだろうけど、「核戦争後に生物が変容し…」というモチーフも、SFではもうダシが出ないほど使い古された印象があり、ちょっとピンと来ない。
6.7合わせて、裏の「生きものの記録」と言えるのかもしれないが、それにしては小粒、それでいてあまりに説教臭い。
8:水車のある村
美しい川と水車のある村を訪れる私(寺尾聰)。水車の修繕をする102歳の老人(笠智衆)に、村のことや暮らしぶりについて尋ね、しばし語り合う。電気すら通っておらず、近代科学技術とは無縁で暮らす彼らの生活は、一見不便に見えながらもとてつもなく自由で豊かなものだった。
知人の老婆の葬式があるので、と席を立つ老人。
村人を挙げての葬列が始まるが、老人が「葬式はめでたいもの」と語る通り、それは暗くしめやかなものではなく、明るい音楽と踊りで死者の生前を讃え送り出す、祭りのような儀式だった。
この話もまた、「物質文明や科学至上主義への批判」メッセージが濃いのだが、水車村の圧倒的な美しさ、葬列の弾けるようなリズムと妙に無国籍なメロディー(トロンボーンやトランペットなど、洋楽器が多く使われているのも面白い)、そして笠智衆!の素晴らしさに圧倒されて、さほど説教されているようには感じない。
6.7と陰惨な話が続いた後なので、美しい情景が目と心に沁みいり、笠智衆のたたずまいと語りに癒される。
この締め括りのエピソードで、この映画がだいぶ救われているように思える。
笠智衆が語るセリフはどれもイイのだが、中でもやはり
「生きるのは苦しいとか何とか言うけれど、それは人間の気取りってもんでね…正直、生きているのはいいもんだよ。」
が白眉。
このセリフは、若造や中年はもちろん、還暦程度の人間が言っても特に心に響かないのだけど、「もう生きるだけ生きた」ようなジジババが言うからこそ、説得力も美しさも生まれてくる。こんなセリフを笠智衆に言われちゃもうたまらんですよ。
それにしてもこの美しい水車村のロケ地は一体どこだろう?と誰もが気になるところ。
ロケ地になった安曇野の大王わさび農場には、今でも水車小屋セットの一部が残っているとのこと。
6.7あたりのメッセージの説教臭さが強烈なのだが、黒澤明自身はあくまで夢のイメージを描いたのであって、何もそういう主張ありきというわけではない…と当時のインタビューで力説している。
ただ実際見てみると、あまりにストレートでセリフ中心の表現になってしまっているために、そう言われてもどうしても気になってしまう。「気にしないでほしい」と語るのであれば、もうちょっと希釈してほしかったとも思うんだが、何もかも「見た夢なんだからしかたがない」ということなのか。
この作品が公開されたときに行われた共同記者会見では、集まった記者たちの質問に黒澤明は次のように答えている。
―今度の作品のテーマはなんですか?
「ぼくは映画を作る時には、テーマというのは考えない。自然に撮っていれば、それがテーマになる。プラカード立てるのは嫌いなんだよ。この作品には、今の世の中に対してぼくが考えていることが全部出てます。」
佐藤は、第8話が自然破壊、第6話が原発への抗議ではないかという記者の質問に対して黒澤は「だから、ぼくはメッセージみたいなのはいやなんだよ」、「まあ映画を観て下さいよ」と答えたと書いている。
(引用:リベラル21 黒澤明全作品30作の放映(30) 『夢』(1990年))
私の感じた不満点は結局、「パニック」「不条理劇」「原発や核への警鐘」「物質文明への批判」といった主題に関しては、既に映画やドラマ・小説や漫画といった各メディアで優れた先行作品がいくつも出ており、この時点で「夢」の描くエピソードテーマが「後発」であることに起因しているのだと思う。「後手」に回った作品は先行の名作をしのぐようなアイデアや表現がなければどうしても不利。しかも「巨匠」の冠が時として災いし、「クロサワが、しかも今撮ってこんなもんなの?」というネガティブフィルターが漏れなく付いてくるというさらなる不利もある。
逆に、1・2のような民話的な世界観の方が、最初から古いフォーマットなのでこれ以上古びようもなく、素直に評価できたりもする。
最初にも書いたように、徹底的にストーリーの枠を取り払い、イメージの奔流に任せるでもなく、かといって半端に筋の立ったストーリーの中にリアリティや強いバックボーンがあるわけでもなく…と、何もかもが半端に終わってしまったというイメージ。
とりあえず、「黒澤明とSF的世界の食い合わせは絶望的に悪いんじゃないだろうか」と強く思った。
とはいえ、この時すでに黒澤監督は80歳を越しており、80になってこれだけ冒険的な作品を作ろうとする意欲には敬服せざるを得ないのだが。
「この程度」が「リアルでない」ということであるなら黒澤の意図はそもそもそういうリアル指向ではないので、そういう指摘自体が的外れということになるでしょう。(リアルな映像じゃないと認めないというのは、嗜好としてはありですが)「まあだだよ」という映画のラストの夕焼け雲を雲名人として知られる達人に平然と「こんな本物みたいな夕焼け描かれても困るんだよ。これは先生の夢なんだから」と描き直しを命じたそうですから。
ちなみに赤富士の特撮はILM担当です。ILMにわざわざこんな非現実的爆発シーンを作らせたの逆にすごいと思いますよ。
井川比佐志のセリフはブラックユーモアです。
自分の命を奪う放射能についてとくとくと説明してるわけですから。
ここは笑っていい部分ですね。
でも今日の時点では、もう笑えないですが。