アカデミー外国語映画賞を受賞している。
この作品を「イイ」と評価する人の話をほとんど聞かないので、「これも眠くなりそうかな…長いしなあ…」くらいに思って見たら、予想以上に良かった。
見ながら時々「そう言えばこれ、黒澤映画なんだよな」と自分で再確認しないと、黒澤映画を見てる気が全然しない。そのくらいに異色の作品なのだが、「何かケツからドタマまで一本芯を通されたような気分」になる余韻はまぎれもなく黒澤作品だと感じた。
カラーになってからの作品の中では一番好きかもしれない。
[プロローグ]
1910年。
開拓の進む村で、何かを探す男がいる。
かつて友人を埋葬した場所を探しているのだというが、目印の木は家を作るために根こそぎ切り倒されてしまってもはや分からなくなっている。
男は呟く。
「デルス……」
[第1部]
1902年。
軍人で探検家のアルセーニエフは、部下を率いてウスリー地方踏査・測量のための行軍を行っていた。冬を迎えようとするタイガの自然は過酷なものだった。
ある野営の夜、奇妙な猟師と出会う。
その男はゴリド人で、デルス・ウザーラと名乗った。家もなく、家族もなく(天然痘で失ったという)、鉄砲一つで必要なだけの獲物を追い、疲れればそこで休む生活をしていたデルス。
言動は粗野で、言葉もカタコトのようなぶっきらぼうの喋り方。けれども森の自然を知りつくし、自然の一部として生きる彼の素朴さ、誰にも真似のできない深い知恵に魅力を感じるアルセーニエフ。デルスを現地案内人として雇い、デルスとの探検行が始まった。
経験に裏打ちされたデルスの知恵に何度も助けられ、すぐれた銃の腕、礼儀知らずだが悪意一つないデルスの人柄に、隊員たちも次第に打ち解けてゆく。
デルスとアルセーニエフの間には、身分や種族を越えた友情が育まれていき、それは吹雪の湖上でデルスに命を救われたことによって決定的なものになる。
旅も終りに近づき、礼金を渡したいから街へ来ないか、とデルスを誘うアルセーニエフだが、無欲なデルスはそれを断り、再び森の中へ去っていく。
[第2部]
1907年。再び探検行に赴くアルセーニエフは、望んでやまなかったデルスとの再会を果たし、再び二人連れ立っての旅が始まる。
旅立ちの当初は春〜夏で、過ごしやすい季節ではあったが、悪質な中国人漁師による落とし穴の罠、匪賊の襲撃など、周辺の事情は確実に悪化しているようだ。さまざまな危機に陥りながらも、やはりデルスの活躍により事なきを得る一行。
ある日、野性の虎に出くわした探検隊。デルスは虎を撃ってしまうのだが、ゴリド人の世界ではそれは禁忌だった。
「虎を殺せば森の精霊が怒り、報復のために自分に虎を差し向ける」
と言い伝えに怯え、ナーバスになってしまうデルス。
さらに、かつては針の穴をも通す見事な銃の腕を誇っていたデルスの視力が急激に低下し、狩人としての自信を完全に失い、失意からさらに怒りっぽい性格に変わってしまう。癇癪のせいで、デルスは次第に隊員からも疎まれ出す。
ある野営の夜、虎の幻影を見て、激しく取り乱すデルス。
もう猟師としてタイガで生きることはできない。彼はようやくアルセーニエフの温情に応え、ハバロフスクの彼の家で暮らすという提案に同意するのだった。
アルセーニエフの優しい妻・可愛い息子とともに暮らし始めたデルス。飢えや寒さからも解放された。
しかし町の中では銃のカラ撃ちさえできず、外でテントを張ってもいけない。さりとて猟師以外の道を知らないデルスにできることは何もなく、生気を失っていく。薪や水をいちいち業者から買う町の生活は、自給自足で生きてきたデルスには理解できない。
雨風の懸念の要らない屋根のある家、暖かい暖炉も、彼には閉塞感を募らせるだけのことだった。
薪にしようと公園の木を切ったデルスが逮捕される。すぐに釈放されたが、デルスの精神状態はもう限界だった。アルセーニエフもまた、彼をこれ以上とどめ置くことは不可能と悟る。「衰えた視力でもこれなら猟ができるはず」と、最新式の銃を渡して、涙ながらにデルスを見送った。
しかしその後アルセーニエフに届いた手紙は、「貴方の名詞を持つ男が他殺死体で発見された」という無慈悲な内容だった。
死体となったデルスは、贈った銃を所持していなかった。警察役人は「最新型の銃を目当てに強盗に遭い、殺されたのだろう」と言い、その場にデルスの遺体を埋めさせてさっさと去っていく。
呆然と立ち尽くすアルセーニエフの姿。
デルスが埋葬された土の上に、彼が杖としていつも持ち歩いていた木の枝をせめてもの墓標代わりに挿しこんでやり、そのアップにエンドロールがかぶさる。
朴訥な男・デルスとアルセーニエフの間に育まれる友情。それがとにかく沁み渡ってくる映画。
別れや再会のシーンで、「デルスー!」「カピタン!」と名前を呼び合うだけでたまらなく胸が熱くなってくる。
教養も何もないデルスだが、彼のやることや考えることは全て理にかなっており、また見知らぬ他人や自然への思いやりに満ちている。厳しい口調で自然界のルールを説き、体現するデルスの姿は、しかし「物質社会・機械文明の警鐘」というほどに説教臭くはなく、これは本当に役者のたたずまいや演技の勝利だと思う。
デルスの言い回しでもっとも印象的なのが、火や水・太陽や川・風といった自然や、熊・狐・虎・ネズミといった動物に至るまで全て「ヒト」という言葉で表現する点にある。
つまり、人間も自然の一部に過ぎず、特別なものではないし、自然を自分と切り離して征服したり、破壊したり改造したりする権利はないのだ、という基本的な考え方に基づいて生きている。そして彼自身、それが立派な考えとも特別な理念とも決して思わず、「当たり前の摂理だ」と把握して疑わないところに至上の価値がある。デルスにとっては、"そんな当たり前のこと"を知らない「町の人」の方が理解不能な生き物なのだ。
あれほど深くデルスの生き方に感銘を受けていたアルセーニエフでさえ、「便利な文明生活の方が幸せなのだ」という文明人の無意識の奢りから抜け出ることはできなかった、ということか。
あのままデルスが森での生活を続けていたのなら、確実に近いうちに死が訪れていただろう。しかしこんな皮肉で惨めな殺され方だけはしなかったはずだ。さまざまな思いが怒涛のように押し寄せていただろうアルセーニエフが、しかし言葉をほとんど語らないのが逆に重い。
構成もオーソドックスながら巧みだと思う。
オープニングでいきなり「デルスが既に死んでいること」を明示しているため、1部はともかくとして2部に入ると、いくつもピンチ要素があるので、「デルスはここで死んでしまうのだろうか?」「ここは乗り切るのだろうか?」と、絶えず頭の中に一種のスリルが生まれるために、「行軍シーンの連続」という巨大な睡眠誘導装置の存在にも関わらず、眠くならなかった。
と言うかこの頃になるともう、観客の大半は「死なないでデルス!」状態になってしまっていると思われる。
結局デルスは、町に住むようになってから弱り、アルセーニエフの最期のプレゼントが仇になって皮肉な死に方をしてしまうのがやりきれない。
ハバロフスクに移ってからのデルスの全身から漂う「所在なさ」には、こちらのほうが正視に堪えないほど、本当に辛そうに映る。
「野性の世界で生きていたものを、良かれと思って文明社会の中に連れてきたら適応できずに弱ってしまう」
というシークエンスは他の物語(というか動物ものが多いかな)にも色々見られるものだが、デルスの痛々しさは群を抜いている。
冒頭のシーン(時系列的にはもっとも新しい)で、「木が切られてしまって、デルスの墓の場所すらもう分からなくなってしまっている」のは、「自然が文明生活のために次々と失われゆく」ことを端的に示している。森に生きたデルスは、もはや木々の中で静かに眠ることすらできなくなっているのだ。それをことさらにセリフで説明したりしないのも余韻があって(この上なく切ないが)好きだ。
前作「どですかでん」が興行的にコケて、いくつかの大作企画からも降板させられ、黒澤明が自殺未遂事件を起こしたのは有名な話。もはや国内で映画を作らせてもらえない状況にあった黒澤にソ連側が声をかけて、「なんでもいいから1本撮りませんか」とオファーして生まれた作品。なので、文字通りの「復帰作」として知られている。
トレードマークの帽子は「デルス」の撮影の時にかぶったもので、「これを身につけておればいつでもデルスの時を思い出し、どんなことにでも耐えられそうな気がする」と常時かぶるようになったという逸話がある。
とはいえ撮影は過酷、寒さの影響と統制経済下にあって、機材も時間も潤沢とはいえない苦しい状況の中で作られたという。カットも尺も、ノルマ上限が定められていたらしい。
しかしケガの巧妙というか、思うように撮影できなかったというのは、逆に「影武者」以降で顕著になる「長く回し過ぎ」な画面になることなく、シンプルでわかりやすく、間延びもしない映像に仕上がっていて、私はこれはこれでいいと思う。
当初、デルス役には三船敏郎を、という案もあり、自分のプロダクションを持っていた三船側が「食わせなければならない社員がいる身で、2年にまたがるソ連ロケに拘束されるのはとても無理」と断ったらしい…という話があるのだが、これも結果的に良かったと思う。
もし三船敏郎が頑張ってロシア語を使って演じたとしても、デルス役を彼が演じたら台無しになっていたような気がする。いや、三船敏郎好きなんだけど、デルスじゃない、と思う。
勿論、デルスを演じたマクシム・ムンズク氏は舞台中心に活躍するプロの俳優(独特の「舞台臭さ」を抜いた朴訥な演技を会得するためにずいぶん苦労したのだとか)なのだが、あの容貌と語り方、彼が演じたからこそデルスの良さがじわじわと伝わってくる。三船敏郎じゃどうしても、色々な意味でカッコ良すぎて豪快すぎて、全然違う。というか日本人がやったのではどうしてもウソ臭くなりそう。この役に関しては、「三船じゃなくて良かった」と思われる方が多いのではないだろうか。
「カピタン」ことアルセーニエフ氏は実在の人物であり、作中でも細かく取っていた記録をもとに著書を発表しており、「デルス・ウザーラ」もその中の一つ。ロシアでは国民的名著だという。つまりデルスもまた実在した人物ということだ。
日本では平凡社の東洋文庫シリーズから「デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行」というタイトルで出版されているものが入手しやすい。
黒澤明は長年これを映画化したいとあたためており、ソ連側が「なんでも好きなの1本撮らないか」という提案に二つ返事で「デルス・ウザーラやりたい」と答え、「あなたは『デルス・ウザーラ』を知っているのですか!」と感激されたという。
アルセーニエフとデルスが旅した「ウスリー地方」は1860年の北京条約によって、中国からロシアに譲渡された地域(正確にはウスリー川以東アムール川以南の地域(東韃靼)。割譲前は外満州と呼ばれた地域)。その実態や地誌的状況を把握することは、軍事的にも重要だった。
デルスは「ゴリド人」だが、現在では一般に「ナナイ」と呼ばれるツングース系の少数民族。中国側では「ホジェン族」という名で呼ばれる。現在はロシア・中国に居住。現在でもシャーマニズムを信仰し、特に火と水への敬意が生活に反映されているという。
ロシアのタイガをはじめとする自然の美しさがよく称賛の対象になるようなのだが、雪国育ち、しかも真冬にこの作品を見たためか、特別に「美しい!」という感動はなかった。ただ、特に冬の情景に関しては「美しさ」よりも「実感」を強く感じた。
特にハンカ湖上で暴風雪に襲われるシーンでは、視界0も珍しくない地吹雪地帯に住んでいる身として、積んだ草が吹き飛ばされる様、歩くことさえままならない様子に、「ああ〜、わかるわかる」と思ったし、あの中で、手元にあるものだけで枯れ草のテントを作りおおせたデルスには素直に「デルスすっげーー!!」と感心した。
この作品と「夢」をあわせて見ると、「夢」の最後に登場する「風車村の老人」の姿が、「無事に森に帰ることができた、あるいは町での暮らしを選ばなかったデルス」「アルセーニエフが"こうあって欲しかった"と願ったデルスの晩年」はこんな老人になっていたのかも…とも思えてくる。言ってみれば「裏デルス」の要素を少し含んでいるのかも?と感じた。