最後となるのは、第4話「小さな独裁者」。
前のエントリでも書いた通り、本来の連載では第3話にあたり、前回紹介した「鬼がくる」より前にあった話。
しかし大都社版でこれが一番最後に配置された理由も分からないではない。
これまでにないタイプの強敵、タロウの大ピンチ、ウルトラの母再登場…と、盛り上がる要素が満載で、単行本のクライマックスにはふさわしい話と言えるだろう。
一方、「(この作品世界の中で)ウルトラマンとは何なのか?」という、第1話で投げかけられた大きな謎を味わうためには、本来の掲載順で読むほうがよいような気もするし、結局のところどちらにもそれなりの良さがあるというところだろうか。
下水管の中。
ドブネズミたちがまるで慕うように集まっている中心に、頭部の異様に肥大した不気味な赤ん坊がいる。
ナレーションにおいて、彼が「通常の進化を飛び越え、現代を超えた人間として突然生まれたミュータント」であることが明示される。
ミュータントは、傍らで争い始めたネズミを、一瞥しただけで手も触れずに弾けさせて呟く。
「け、んか だめ……」
そのすぐ隣のコマで場面転換し、中学生とケンカする仁義くんの姿。
このコマ運びがまた、あとの展開を暗示していて秀逸だ。
その現場に這い現れる先ほどのミュータント。
「へへっ、よく見るとかわいいじゃねーか!」(そ…そうか???)
彼の姿を見るとなぜか全員和んでしまい喧嘩を中止。
ミュータントが空腹の意思表示をすると、双方連れだってパン屋へ向かう。
途中、別の生徒がケンちゃんと目を合わせただけでその一行に加わるのが不気味。
パン屋に着いたケンちゃんたちは、店を打ち壊して食べ物を強奪し、店主を殴り倒して逃げてしまう。
一方、さおりさんと連れだってランニングしながらトレーニング(一応キックボクシングのことも忘れてなかった模様)にいそしむ光太郎。
さおりさんの自転車にぶつかって転んだ子供の本を拾いあげながらその題名を見ると、
「宇宙心理学!!世界経済概説…とても小学生の読む本じゃないな…どうしたんだい?」
世界経済概説はともかく、「宇宙心理学」のほうは、まともな大人や学生の読む本でもないと思うのだがその辺どうなんだ光太郎。
詮索しようとした光太郎は、別の子供から鉄骨でぶん殴られて倒れてしまう。
ケンちゃんたちは目を合わせるだけで徒党を増やしていき、集まった子供たちは店や町を打ち壊し、大人を襲って行く。
さおりたちも、ケンちゃんが帰らず、町の子供たちが消え失せたことに異変を感じ始めていた。
再び下水。
子供に集めさせた本を読み漁るミュータント。
彼の周りにはドブネズミ、そしてその後ろに子供たちが並び控えている絵が怖い。
子供たちは各地から合流していよいよ増大し、車を壊し、銃を奪い、放火、殺人に至るまでエスカレートしながらテレビ局へ向かって行った。光太郎はニュースを見て駆け付ける。
暴徒とかした子供の中にケンちゃんの姿を見つけて呼びかけるのだが、振り向いた顔つきは異様で、正気を失っていた。このケンちゃんの顔がほんとに気味悪い。
子供たちの投石に傷つきながらも怯まずに歩みを進める光太郎は、険しい形相で彼らを見据える。
「この目はおまえたちをにらんでるんじゃない。おまえたちのうしろにいる……あの、……あの怪物だ!!」
光太郎とミュータントは、空間を越えて心で通信し合う。
「あやつってなんかいない。おとなから子どもを解放しただけ」
「子どもたちは新しい世界をのぞみ、作ろうとしている」
「おとなはみんな、子どもには何もできないと思っている。だからおとなは勝手に子どもの世界をこわす。だが…これからは違うんだ。」
「ゆるさねーぜ!純真な子どもの心を盗んで……自分の世界を作り出す怪物!」
といきり立つ光太郎にミュータントが笑う。
「ゆるさないって?どうやって…フフフ…おまえの力じゃぼくを倒せない。」
その言葉通り、光太郎の言葉に子どもたちは耳を一切貸さずに、石を投げつけ、武器を持って暴行を加えて行く。
思わず一人の子どもを投げるように持ち上げようとする光太郎だが、動きが止まる。
「だ、だめだ…できない……」
超跳躍してその場を逃れるが、打開策が見つからず、虚無感にさいなまれてテレビ塔に立ち尽くす光太郎。
「おれの力じゃ 子どもたちを止めることはできないのか…」
ここにミュータントの作戦の、最大の巧妙さがある。
子どもは物理的には弱い存在だが、社会通念上アンタッチャブルであるという特権・不可侵性を持っている。
大人は子供より圧倒的に大きく強い。ゆえに、モラル上・また生理的に、公然の場で「暴力を用いて子供を制圧する」ことができない生き物なのだ。光太郎が戸惑ったように、まともな感性の大人ならば、子どもを強打したり、ゲバ棒を振るったり、発砲することにはどうしてもブレーキがかかってしまう。
ミュータントはその大人の習性を最大限に利用しているのだ。
光太郎もまた、大人であるがゆえに、子供達に手が出せない。
例えば、私は世代的に文字や映像でしか知らないのだけど、1960年代を揺るがした学生運動の、学生VS機動隊の闘争において、機動隊や警察側がそれなりの「本気の手段」で対応できたのは、相手が知力・体力・体格的に成長しきった「大人のカタチ」をしていたからであって、同じことが中学校で起こったら、あるいは小中学生を矢面に立たせる作戦に出ていたらどうなっていただろう?
あるいはそんな風に発想したのかもしれない。その発想を出来ること自体が既に「怖い」。
この作品の持つインナーな恐ろしさ・不気味さは、その発想と、「それを実際に描いちゃった」すごさに立脚していると思う。
終結した子供たちはTV局を占拠し、ミュータントはアンテナを使って自らの脳波を電波にして全国に流す。それに反応した子供たちは日本各地から東京目指して集結し、いよいよ大軍団を形成する。
機動隊や戦車までも出動して食い止めようとするが、やはり彼らもどうしても子供相手に発砲できず、逆に武装を奪われてしまった。
戦車に乗って暴れる子供たちを見かねて光太郎がタロウに変身して止めようとする。しかし無抵抗のまま集中砲火を浴びるタロウの体にも限界が訪れ、マスクに大きなヒビが入る。
「ああっ!タ、タロウがっ!!」
という文字は、連載当時に編集側が入れたアオリなのだろうが、そのまま残っている。まあこれはこれで味わいがあるのでいいか。
絶体絶命のピンチ、と思われた瞬間、顔のヒビからは強烈な光が放たれてあたりを包む。
子供たちは正気に戻り、ミュータントはのたうち回って苦しみ始めた。
「ウルトラの偉大なる母よ…私の体は、一体どうなったのですか?」
「その力はあなたの力の象徴です……」
ウルトラの母の声がタロウに届く。
「あなたの光輝く力のとうといいわれを教えてあげましょう」
地球ができて間もない、「人類がまだ猿に近かった」頃に、地球を数人の超人["ウルトラマン"のルビ]が訪れた。
コマの上ではウルトラマン・ウルトラの父(たぶん)・セブンが光り輝く円盤から猿人の前に降り立ち、ウルトラマンがそのマスクをはずす。するとそこから不思議な光が放たれ、霊長類の進化を促した。
ここで大胆に描かれる、「アルムのおんじみたいな、髭フッサフサの徳の高そうなオッサン」というウルトラマンの素顔は、当時の読者の度肝を少なからず抜いたんじゃないかと思うのだがどうなんだろうか。
彼らは地球人にさまざまな文明をもたらし、勇気と知恵と正義と愛を与えたのです。
超人たちはさがしていたのです…
この地球で自分たちと同じ力をもてる者たちを…
いっしょに全宇宙の平和を守れる同胞を…
いつの日か兄弟となって…宇宙を守ることを夢みていたのです…
しかし、いまだ人類は超人たちの期待にこたえることができず、憎悪と邪心とに苦悩して、さまよっているのです。
だが 輝かしき人類の明日を夢みて、超人たちは人類を守りいつくしんでゆかねばなりません。
タロウ……いま、あなたを守っている光は、祖先が初めて人類にもちいたとうといウルトラの光なのです。
さあ…その光で、子どもたちを救うのです。子どもこそ、人類のあしたを約束するすばらしい財産なのですから……
この回想シーンでは、「初代マンの素顔」の他にも、「類人猿に火のおこし方を教えるウルトラ一族」(これ誰だろ…ゾフィーにも見えなくはないが、あまりにもぞんざいすぎて分からない…)というレアな場面も見逃せない。
というかこの「光」って、考えようによっては「ゲッター線」と根っこが一緒のような気も…
ミュータントはその光に苦しみながらも巨大化する。
冷静に考えると、人類の進化を促した光だとすると、ミュータントの進化も促しちゃうような気がするのだがよかったのかどうか。
「正義に燃える怒りの矢(やっぱり技名を言わないタロウ)」で胸を貫かれるが死なず。
頭をビームで打ち砕かれて脳漿ぶちまけても死なず。
傷をあっという間に治して、さらなる巨大化をとげるミュータントに打つ手が見つからない…ように思われたのだが、突如激しく苦しみ出す。
彼の能力は人間をはるかに超えているが、体はまだ赤ん坊なのだ、と説明する母。
「能力が肉体をこえたとき、肉体は破壊されてしまうのです。」
そういう意味ではやっぱり「光」を当てて正解だったという訳か。
タロウの光線がミュータントの頭部をまるっとブチ抜き、今度こそ倒れる敵。
「この子には現代はまだおくれすぎていたのです。この未来の子は私があずかります。」
と言い、母は闘いに力付いたタロウを癒すために、その体を導く。
浮かび上がり、太陽のような姿の母の元に導かれ、地球から遠ざかるタロウの姿。
ポカーンとなすすべもなく見つめる子どもたちや地球の人々。
ハイここで大都社版タロウは終わりで―――す、っと。
というわけで、この話は確かに盛り上がるのだけど、ここで終われば終わったで、激しいおいてけぼり感にさいなまれたまま本編終了してしまうので、やっぱり一長一短な気もする。
この後に「鬼がくる」であれば、「ああタロウは傷をいやして戻ってこれたんだな」と一種安心できるわけで。まあその辺は好き好きかもしれない。
「大人は自分たちに手を出せない」「子どもは社会通念上守られている」ことを見切り、利用する子どもほど手に負えないものはない(ある意味モンペア産の現代のクソガキ様がたはこの類かと思う)。このエピソードの怖さや不気味さに気づくのは、読者の中でもある程度高い年齢層(ハイティーン以上)で、小学生くらいだと逆にちょっと小気味良さを覚えてしまうのかもしれない。
大人であっても、
「純真な子どもたちをもてあそぶ」
という光太郎の発言の中にある「幻想」よりは、
「あやつってなどいない、子どもたちの願望や本心を引き出しただけ」
というミュータントの言葉の方が白々しくなく聞こえるのは確かだろう。
エピソード後半で興味深いのはやはり、ウルトラの母が語る「ウルトラ超人と人類の関係・光の役割」だろう。
初代マンの素顔もなかなかビックリ展開だが、特に注目したいのは
だが 輝かしき人類の明日を夢みて、超人たちは人類を守りいつくしんでゆかねばなりません。
という部分。
第2話で暗示された
「ウルトラ超人が守るのは、地球そのものなのか、地球自体にとっては有益と言えない生き物である人類なのか」
という問いに対して、ここで明らかに
「人類を守り育てるもの」
と答えているのだ。
勿論地球はどうあってもいいというわけではなく、地球あっての人類だし、「地球を守りながら繁栄できる」レベルまで人類を導きたいという意味が含まれてもいるのだろうが、明らかに焦点は「友人となりうる素質を持つ人類」なのである。
これはなかなか興味深く、もしこのまま連載が続いていたならば、「怪獣の主張の方が筋通ってんじゃないか」と悩む光太郎の姿や、タロウが人類から迫害されたりするヘビーなエピソードなんかもひょっとしてあったかもしれない。
「ビバ!ダイナミック」のふりーく北波氏は、紹介ページの中で
あのまま描いてたらタロウの手で地球滅ぼしてたかも...。
と結んでいるのだが、そのお気持ち、もんのすごーーっく分かります…
全体を通して眺めてみると、ややイレギュラーなコミカライズとして、そして作家性とオリジナリティ溢れたハードSFとして、十分に楽しめる一冊なのだけど、石川賢とウルトラヒーローはやっぱりちょっと相性がよくないのだろうな…というのが、率直な感想の一部だ。
石川賢コミカライズの変身ヒーローもの全体(といっても、変身忍者ら嵐とかバトルホークくらいか)について感じることなのだが、主人公の変身前の顔付きが、回を重ねるごとにワイルドで「殺しても死ななさそう」になって行くのに対し、変身後の姿が「なんとなく変身前より弱そう」。というか「変身前の方が強そう」。
こちらの色眼鏡のせいか、この86年大都社版の表紙も、なんとなくそんな風に見えてしまう。
巨大化しているにもかかわらず、なんとなくキャラクターとしての「押しが弱い」ように感じてしまう。
その原因はいくつか考えられる。
一つには、デザイン上どうしても特撮、特にウルトラ系ヒーローでは、石川漫画の魅力の一つである「目力」を発揮できないということ。これはもちろん、どっちのデザインがいい悪いの問題ではなく、絵柄の違いやギャップの話になる。
本作でも変身シーンはなかなかカッコよく、熱を入れて描かれているのはよく分かる。
*「失われた町」の変身シーン
*「鬼がくる」の変身シーン
(このページの絵柄があんまり連載当時っぽくないように感じるのだが、
単行本化した1978年ごろの描き足しだろうか?
「伊賀淫花」のあたりに似ているような…)
「石川賢がタロウをかっこよく描けてないだけ」というご意見もあって当然とは思うのだが、私はやはり、変身前、タロウになる直前の方がカッコよく見えてしまう。
やはり強烈な目力や、ワイルドな意思を感じさせる口元の描写が、変身してしまうともう描けないというのは大きいと思う。
もちろん、ウルトラヒーローを漫画化するにあたって、変に黒眼で芝居させたり、のどちんこが見えるほど口を開けさせてしまったら、そっちの方が気持ち悪くてダメだろう。
また、唇があるので表情がまだアレンジしやすいウルトラマンやエースあたりに比べると、セブン・タロウ系の口元はホントにいじりようがないので、コミカライズする方にとっては大変なキャラクターというのもあるだろう。(その点で、それぞれのイメージを壊さず、なおかつしっかり芝居させている内山まもるは本当に偉大だと思う)
顔から話を移せば、アクション全体がどうも今一つ冴えない感もある。
思うに、ウルトラヒーローのデザインはシンプルを旨とし、キングのマントなどを除けば、基本的に体に密着しているアイテムのほかに身につけるものはない。
対して石川賢は、「靡かせるカッコよさ」を操るのが天才的に上手い漫画家だと思う。
それはマフラーやスカーフだったり、マントだったり、上着やコートだったり着物だったりキャラクターの髪だったり、はたまた「なんだかよくわからん布」だったりするのだが、とにかく「靡かせる」と本当にかっこいい。男でも女でもロボでもそうだ。アクションさせればその「靡き」の利用がさらに際立つ。
こうした「靡かせるギミック」を積極的に活用した代表格は、言うまでもなく石森章太郎…なのだが、石川賢の場合は、徹底的に心酔したという白土三平からの流れなのではないかと勝手に推測している。まあそれはそれとして。
要するにウルトラヒーローには(くどいようだがいい悪いの問題ではなく)「靡かせるもの」がない。だから今一つ石川賢の持ち味が出ない…というか、描いていてなんとなく物足りなかったのかなあ…などと思ったり。
勿論そうしたギミックがなかろうが、独自色がどうあろうが、つまるところ「タロウをタロウとしてしっかりカッコよく描けばそれですむ話」である。
ウルトラヒーローのフォルムは、現在に至るまで「シンプルなヌード人体」そのものである。ウルトラもののコミカライズを見てつくづく思うが、それだけに、表面的な絵の上手い下手というよりは、「人体をしっかり描ける作家」「しっかりとしたデッサン力の上に立脚した絵を描く人」でないと、見ていて間が持たない。単に「上手に男性のフォルムが描けている」だけでなく、「超人の神秘性」も加味した絵でなければならない。シンプルゆえになかなか難しい相手だと思う。
残念ながらこの当時の石川賢は、アクションの間の取り方や演出のセンスはいいのだが、人体を書く力についてはまだ発展途上の段階でちょっと弱く、まだ類型的なレベルにいたんじゃないかと感じる。
相当努力したのだとは思うが、当時の画力の限界もあったんじゃないかな〜…と個人的に思う次第。
とはいえ、ストーリーテリング的には、「ウルトラ超人と人類・地球」という思い切りマクロな視点でのストーリー作りを行い、また「ウルトラマンと怪獣の巨大なものどうしのバトル」を描くことによって背景との兼ね合いを取りつつスケーリングして描く経験を得たことは、翌年の「ゲッターロボ」の製作を行う上で大きな収穫になったのではないだろうか。そう感じさせられる作品であることは間違いない。
単行本については、1999年に発行された双葉社版が最も入手良好かと思われる。
ちなみに収録話・順番については今回ご紹介した大都社版と同じらしい。
そして事後報告ですが、自ブログで大道寺さんの某SSを元にしたネタ絵を描いてしまいまちた。糸目のおっちゃんがイメージと違っていたらゴメリンコなのです。土下座する用意はいつでも出来ておりますぞ!!
コメントありがとうございます。そして素敵な絵もありがとうございました。もう嬉しさで死にそうです。夕飯作る前に見てしまって、顔がゆるむのを押さえるのが大変でした…ラブレター送りましたのでどうぞご覧ください。えーとえーと、大好きだー!
>掲載順
って大事なんだな〜…とつくづく思いました。
古い作品のこういう情報は普通だとまずわからないので、ディープな研究サイトさんやコレクターさんの情報にとても助けられました。
これで終わるとほんとに、こっちもポカーン状態のまま全一巻おしまい…になっちゃうのですよねー。
いや、石川先生は好き勝手やってますよねw
本編も負けじと好き勝手…というのがタロウのイメージなのですが。フリーダムだなあ全方位で!
このレビューを描いたおかげで、自分の中でタロウを上方修正で再評価できたのは意味あることだったなあと思います。
私はちょっと詳しく描きすぎるきらいがあって、それはそれでいかんよなーと反省しきりなのです。入手容易であれば意図的につまむのですが…
魔界転生はともかく、雀鬼は自分で単行本を持っていない(借りただけ)のと、以前八王子市民さんがお書きになったのが超面白かったので…あのレビュー復活させてくださらないかなーと待っているところだったりします。
次書くとしたらとりあえずバトルホークかも。
「とりあえずバトルホーク」ってのも我ながらすごい状況ですが。
いわれてみれば、石川版タロウは変身前の光太郎の方が迫力ありすぎ。そうか、ウルトラヒーローを表情豊かに・・というのは難しいですよね。本当、内山先生はすごいですよね。
あの頃の特撮作品のコミカライズというのは玉石混交でしたが、石川先生とタロウというのはかなり異色なイメージで、なおかつ衝撃的だったことをおぼえています。
石川版タロウ、再読します!
特撮関係はさっぱり疎く、この作品も一方的に「賢作品」として読んでいましたので
こうして元作品との詳細な比較を指示していただけると、またより深く読むことが出来ます。
長らく若木版しか持ってなくて「鬼がくる」を読めてなかったんですが、後年このエピソードを
読んだときに思い出したのがご指摘の通り、ゲッターGのアトランティス人でした。
バトルホークのレビューも楽しみにしてます!
しかし、石川先生の描くタロウって体の模様がぞんざいだなあ(苦笑)
「種に進化をもたらした光」の設定は他の作品にも色々登場しますが、作品世界の中で、ゲッター線ほど大きな存在になったものはなかなかないんだろうなあ、と思います。
きっと石川先生も、初代ゲッターを描いていた頃には、まさかこんなに大きいシロモノになるとは思わなかったのではないでしょうか。
>石川版タロウは変身前の光太郎の方が迫力ありすぎ。
光太郎のビジュアルは、石川漫画の中ではかなりおとなしい方なのですが、やっぱり相性なんですかね〜。
>そうか、ウルトラヒーローを表情豊かに・・というのは難しいですよね。本当、内山先生はすごいですよね。
多分ウルトラシリーズがお好きな方は、そもそも表情のついた芝居をされること自体好まないのかな、とも思います。
ある意味能のような世界というか、顔はあくまでそのままで、抑制された動き(あまり大きなマイムとかもしないですよね)の中で考えや感情を表現するのが醍醐味なんだろうなと。
内山版も多分に好みが分かれるところかと思いますが、やっぱり上手いなあ〜と思います。
>>青さん
「鬼がくる」のエピソードは、誰しも「Gとどっちが先だっけ?あれ?」と思いますよね〜。
本当に貴重なものをありがとうございました。そのうち地酒送ります。
バトルホークはやろうやろうと思いつつ放置状態なのですが、何しろ私、OP以外本編を見たことがない(そもそも山形で放映していたかどうかすら記憶にない)ので不安が大きかったりも…まあみんな口をそろえて「別物でした」とおっしゃるのでそこは鉄板だし、ツッコミどころもたっぷりなのでそれだけでもできそうではありますが。
>>SINOBUさん
>アステカイザー
実はオフの際にちょろっと他の方のを読ませていただいた程度で、持っていないのでした…
猪木さんの目がやたらキラキラしていたのは強烈に覚えているわ…
オフでは目の前に賢作品がこれでもかと積まれ、3,4作品連続で読んだあたりでだんだん「ダイナミック酔い」してきちゃったんですよw(「怪傑シャッフル」「アステカイザー」のはしごは濃かった…)入手できたら是非書きたいですね。
>しかし、石川先生の描くタロウって体の模様がぞんざいだなあ(苦笑)
本当にwコマによってはヤバいくらいに適当です。
タロウは胸の周りとか描くの面倒だし、太腿のラインとかも、厳密に描こうとするとバランスがしんどそうですよね。
ボディを描くの楽そうなのはレオあたりかなあ…
「モンペアとその子であるクソガキ」ですが、
第二期ウルトラには(かなり戯画化されているとはいえ)
結構「あー、現在だったらモンスターペアレント扱いされるよな」な親キャラ出てきますよね?
(で、その子供は反面教師か主人公はじめ防衛チームの隊員に協力的だったり)
つまり、「そーいう親は昔からいた」んではないかと…。
一方で、「あんな良家の/硬い職業の家の子がこんな事件を起こすなんて…」みたいな話、
現在でもしばしば見られますし。
ゼラン星人もヤプールも「子供が純粋だと思ってるのは大人だけ」作戦でウルトラ戦士を
窮地に追いやってますし、
80こと矢的先生も「このままでは子供たちの世界は”怪獣”だらけになってしまう」と危惧されていました。
いつの時代もどの階層にも「自分が子供であることを武器にする餓鬼」はいるのかも知れません。
私は30代後半の者ですが、子供の頃を回想すれば色々と思い当たる節はありますし。