私は依然としてICUに入っており、同席できなかったことは先日書いたとおりでしたが、その時住職さんにしていただいたお話を、母から聞きました。
仏教では基本的に「数え」で年を数えますが、その理由は
「仏教の教義では、人間の命は、母胎内に生まれたときに『誕生』とみなし、そこからカウントする。だから『胎内から産まれ出た時に1歳』として数える。」
からであり、
「今は通常、満年齢で数えるので、『(0歳)*ヶ月』と言うけれども、それは母の胎内で懸命に生きて育った赤ちゃんに失礼な話なのです。仏教では生まれた赤ちゃんを『0歳』とすることはないのですよ」
ということだ、という趣旨だったそうです。
通常、社会では「生きた子供と共にいない夫婦」は当然「親」とは見なされません。この話を聞いて、たった5ヶ月の短い日々であっても私たち4人は「親子」であり、永二とふたばは「人間」であり、私たちを「親」にしてくれた「子供」なのだと住職さんに認めてもらえた気がして、少し救われたように思えました。
現代社会では、七五三や厄年、その他還暦や喜寿などの年祝いなどを除いては、忘れられかけた「旧癖」としかとらえられない「数え年」は、実は喪失感にさいなまれた、子供を亡くした親たちの心をしばし慰めてくれるシステムでもあったのだと、この憂き目の中で初めて気付いたのでした。
まぁいわゆる無宗教なのですけども
葬儀は浄土宗を採用しております。
法然の「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」のあれです。
困ったことが起こると「神様!仏様!」と節操のない私ですが、叔母が病に倒れた時には静粛な気持ちで「南無阿弥陀仏」を唱えたことがあります。
ちょっと雰囲気は違うかも知れませんが残されたものの心の救済の面で納得することしきりでした。
葬儀や供養、それに関連することは「死者のためというより、残された家族が自分たちの心(の救済)のために行うもの」と思ってはいましたが、今回の件では本当にその思いを強くしました。
私も、実家の母の家がご門徒なので、「南無阿弥陀仏」の効用はけっこう実感しています。