それに比べれば些細なことですが、物語の経過やラストについてもネタバレしているのでご注意ください。>
このレビューは、幻冬社文庫(上下巻)版を底本にしています。
半死半生のアシュラを家に連れ帰った散所太夫は、愛人に手当をさせつつ、前の妻とのやりとりを回想する。
散所太夫「子供などいらぬ!わしは わし以外の人間とかかわりあいになりたくない」
藤乃(アシュラ母)「でも あなたの子どもですよ」
太夫「子どもだろうがなんだろうが わし以外の人間にはちがいない!」
藤乃「で でも わたし 子どもがほしい」
太夫「それはおまえの考えだ 子どもはどうかな」
藤乃「で でも おなかから出ようとするのは 人間の本能です!」
太夫「この世を本能で生きられるか 幸福になれるか!
お前は幸福なのか!」
太夫「妻はいらぬ わしがほしいのは女だ わしにとって女は 美しく可愛ければよい!」
このやりとりの後、藤乃は出奔・狂乱に至ることが示唆される。
散所では、赤ん坊が焼き殺される事件が連発し、丹治たちもいぶかしがる。一方、散所の中をさまよいながら、うつろな笑い声と「アシュラ」の名を呼び続けるアシュラの母。事件の犯人は彼女だった。
散所太夫が自分を父と明かすことはなかったが、アシュラは彼の家で、それなりに穏やかな時間を過ごす。「母って…わかさみたいな感じかな」と思いを馳せつつ、焼き殺されかけた時の記憶がフラッシュバックして彼を苦しめる。
散所で偶然に母と再会するアシュラ。記憶の中の顔と眼前の女が一致し、アシュラは彼女を母親だと認識する。しかしそれは「自分を食おうとした女」という認識でもあった。(ついでに「アシュラ」という名前もここで初登場する。それまでは「この子」とか「こいつ」としか呼ばれていない。)泣きながら息子を抱きしめる母を、アシュラは崖の下へと突き落とす。
丹治たちから「藤乃が散所太夫の前妻」だと聞き、散所太夫が自分の父親だと知るアシュラは、怒りに燃えて太夫のもとに走り、対峙するのだった。
二人の対面シーンでは、また激しく風が吹き荒れ、作品冒頭を思わせるかのように、カラスがギャーギャーと大音声で鳴いている。
アシュラが「●●だギャ」という特有の喋り方をするのはここからで、またそれまでカタコトだった言葉もいきなり饒舌になる。
「母親を殺した」と言うアシュラに、「なぜ自分の母を殺した」と言い、「情の深い女」と藤乃を評する太夫。
(以下、朱色=アシュラのセリフ、青色=散所太夫のセリフです)
「わしはこの年まで生きてきた やっと生きてきた なんのために生きてきたのかわからん」
「わしは生まれたことに なんのよろこびも感謝もしておらん」
「米ツブほどの真実も 人間に見つけることができなかった」
「わしは全ての人間をにくんでいる」
「おまえも人間だぎャァ!」
「そうだ わしは わし自身をにくんでいる」
「だが…おまえの母親はひとを愛することにけんめいじゃった あの女を殺したのは罪なことだ」
「お前の母親だぞ!」
「ちがう」「生むだけなら誰でもできるギャ」
「なんで生んだギャ」
「じぶんの母親に火の中になげこまれ 食われそうになったギャ!」
「なにっ!」「あ…あわれじゃ…」
「あいつが母親としてしたのはひとつだけだ 名前をつけただけギャ」
「アシュラ」
「阿修羅 アシュラ!」
「なんで」
「なんで」
「なんで生んだギャ」
「なんで生んだギャァ」
「生まれてこないほうがよかったギャァ」
「生まれてこないほうがよかったギャァ」
「生まれてこないほうがよかったギャァ!!!」
この「生まれてこないほうが〜」のリフレインは実に強烈だ。
散所太夫は自分の罪の大きさを実感し、土下座して、父として子に詫びる。しかしアシュラは「父じゃないギャ」「おまえはただの男だギャ」と拒絶する。
「なにが なにが人間をにくむだ! お前が1番悪いんだギャ!」
「おれが母親を殺して何が悪いんだギャァ!」
「おれは何をしてもいいんだ 悪くはないギャ!」
アシュラは「にくい」「にくい」と叫びながら太夫を殴りつけ、棒で打ち据える。
散所太夫は「自分の心の弱さが招いた憎しみの関係」を悔い、アシュラに「自分を殺せ」と言う。アシュラは鎌を手に取った。
そこにアシュラの母が現れ(この母子はホントに不死身だな)、子の名を呼びながらなお抱きしめようと近寄るが、アシュラは「おれは何も悪くないギャァ!」と叫びながら、鎌を母の太腿に突き立てる。
「よせっ!」
「はなせ 殺してやるんだギャ」
「お前の母親だぞ!」
「だから殺すんだギャ!!」
あまりに簡潔すぎるやり取り。その激しさに鳥肌が立ってしまう。
この文字通りの修羅場に現れたのは、以前登場した乞食法師だった。生まれてきたことをとことん恨みぬき、幼くして「生まれてきたことをくやむ」アシュラの姿に深い哀れみを抱いた法師は、アシュラを任せてくれるように申し出て、散所太夫もそれに同意。
アシュラの母は息子の名前を泣き叫びながら、またいずこともなく彷徨うのだった。
<続きます>
拡大解釈が過ぎるかもしれないが、この一連のアシュラの悲痛な叫びを読むと、「親に傷つけられたり、また放置されたり」という仕打ちを受けた子供の心がどのような傷を受けるのか、に思いを馳せないではいられない。それは肉体的に、かもしれないし、精神的な仕打ちであるかもしれない。
まして現代では、アシュラの舞台となった中世の飢餓のように、「自分の生命をギリギリで保つため」という理由ではなく、自らの快楽追求や責任放棄に端を発するものがほとんど、ということを考えるとやりきれない気分になる。
また、周りに迫害を受けなくても、思春期などには「周りが悪い、俺は悪くない、だから何をしてもいい」という心境に、理由なく到達することもある。
漠然とだが、「人の親である人」や「トラブルを抱えた子供と接する機会のある職業の人」にとって示唆的なものがある場面かもしれない、と想ったのだった。