それに比べれば些細なことですが、物語の経過やラストについてもネタバレしているのでご注意ください。>
このレビューは、幻冬社文庫(上下巻)版を底本にしています。
予想以上に長いレビューになっちゃったなあ。これで終わりますから。
山狩りに遭うアシュラは、追っ手を次々に返り討ちにするが、その数は次第に増え、傷つきながら逃げるアシュラの体力も消耗していく。追い詰められた彼を助けたのは、散所の子供たちだった。
山狩りを知った彼らは、乏しい食事の中から少しずつ米粒を集め、握り飯を作って、アシュラを助けるべく後を追っていたのだ。ようやく追いついた時には握り飯は腐ってしまっていたが、涙を流してそれを貪り食うアシュラの姿を見ながら、丹治たちの目にも涙がこみあげる。
都に逃げる提案を受け、険しい岸壁を登って進むアシュラ。
岩穴の中に自分そっくりの姿を見て驚くが、実はそれは乞食法師の作った阿修羅像だった。
「自分を見て恐ろしがることはないぞ」と、再会したアシュラに語りかける法師。
法師によれば、「別にお前を手本にしたわけではないが、どうしても似てしまう」とのことだった。この後に続く法師の言葉は、作品のテーマを明示的に語る貴重なシーンだ。
阿修羅とはの 迷いの世界の一つじゃ
いかり なげき 苦しみ 傷つけられ 苦悩する人間とでもいうのかな…
戦っても戦ってもやぶれる やぶれるたびに きずつき また戦う
絶望的と思いながらも かなしくむなしい反抗をくりかえす
一生死ぬまでくりかえす
あわれで あわれで あわれで いたいたしい
それでも生きていかねばならぬのが人
阿修羅は おまえだけじゃあないのだぞ うん
その言葉を聞いて、父や母・若狭の姿が脳裏に甦り、アシュラはやりばのない思いをナタにこめて眼前の阿修羅像をたたきつける。傷つけられてさらに凄惨さを増す像はどこか悲しげでもあり、皮肉にもますますアシュラに似てくるようにも見える。
一方、若狭の境遇は困窮を極めていた。
アシュラに負わされた怪我のせいで父親が働けなくなり、一人で生活を支える若狭。しかしたちまち食料も底を尽き、空腹で苦しむ毎日だった。
彼女に横恋慕する彦次郎は、生活の援助を盾に結婚を迫るが、七郎を思う若狭はプライドを持ってその交換条件をはねつけていた。文字通りの兵糧攻めを狙う彦次郎が、周囲の人間に若狭たちへの援助を禁じたため、彼女と父の飢餓状態はいよいよ深刻になる。
若狭をどうにか助けたい七郎だが、いかんせん散所の下層労働者である彼にはどうすることもできず、自分の無力さに苦しむ。飢えのあまり、若狭に冷たい言葉を投げつけられ、言われた七郎も言った若狭も心を苛まれるのだった。こっそり散所のなけなしの米を持ち出そうとするも、丹治に見つかって阻まれる。いつもは二人を応援する子供たちも、生きるよすがである米までは許すことができないのだ。
飢餓に苦しむ若狭の父は、娘に売春を言い出すまでに追い詰められ、若狭は情けなさに絶望する。
そこに現れるアシュラ。肉を差し出して礼を言われるアシュラは、若狭を試すように言い放つ。
若狭 それは人間の肉だギャ
人間を食べるのはいいのか
(この直前に「人間を殺して悪いか」「あたりまえです」というやりとりがある)
躊躇う若狭だが、肉を貪り食う父の様子を見ているうちに、ついに肉にかぶりつき、さらには父親と奪い合う姿を見せてしまう。
崇高な存在・理想的な母性の人として慕ってきた若狭の浅ましい姿に、少なからずショックを受けるアシュラ。
追い詰められてしまえば、アシュラも母も同じ選択をするのだ。
どんな人間でも 獣になってしまう瞬間がある
しかしの アシュラ それをせめちゃいかん
人間のかなしいとこじゃ
あわれと思え
あわれと思え
あわれと思え
法師の言葉が頭の中に甦る。
我に帰った若狭は、人肉を食べてしまったことを悔い、「そのオノで私を殺して!」とアシュラに訴え、泣き崩れる。
「ごめんね若狭 あれは人の肉じゃなくてイノシシの肉だよ」とフォローし、アシュラは去っていく。
しかし若狭には分かっていた。何の肉だったかは問題ではない。決定的なのは、自分が「人肉と認識していて食った」ということなのだ。
「私達にあの子を責める資格はない」「あの子が獣なら私も獣」と父に呟く若狭。
あの子は いちばんしょうじきに生きているのかもしれないわ
若狭の消耗具合を見計らった彦次郎は、食料を持って彼女の家を訪れる。元から彦次郎との結婚に積極的だった父親はその場で結婚を認め、体力と気力が限界に達した若狭はついに彦次郎を受け入れる。
散所の米を持ち出した七郎もその場に駆けつけるが、時既に遅し。心をお互いに残し、涙を流しながら、若い恋人は引き裂かれてしまう。
七郎のせいで食べるものもなくなった散所の子供たちだが、労働管理者である小頭はさらに彼らに厳しくあたり、米を配給しようともしない。アシュラはその小頭を殺し、彼が溜め込んでいた米を奪い、子供たちに配給する。
七郎にも失望し、小頭や荘園の大人たちにも業を煮やした子供たちは、地獄絵図と知りつつも、アシュラと共に都を目指す。アシュラを快く思わない太郎丸もなし崩し的に付いていく。
このあたりから、彼らにとってアシュラが推進力的な存在、「進んだ先には何かがあるかもしれない」と思わせる存在になっていく。
率先して水を探したり、ウサギを獲ったりする。しかもそれを皆に分け与える。冗談を言うような余裕すら見せる(笑いは高度な人間性の象徴でもある)。体力が尽きた仲間を見捨てたり、まして食ったりはしない。
また、彼らの中にルールと秩序が生まれ出す。
狩りに参加しなかった太郎丸に、「肉は分配しなくていい」と言うアシュラ。しかしそれは悪感情からの言葉ではなく、「働かなかったから」という明確な理由があってのことだった。
かつて生きるための殺戮と略奪しか知らず、「大鍋の食物を分けて食べる」ということすら知らなかったアシュラが、自分達の生活のためのルールを作り出していくのだ。
彼らは都からの流民たちとすれ違う。流民らは都の惨状を訴え、行かない方がよいと忠告する。
この中に一人、布眼帯をした少年がいるのだが、これがまた「銭ゲバ」の主人公・風太郎そっくりなので目を引く。
すぐ近くに、おびただしい数の死体で埋まった大穴が悪臭を放っていた。都の荒廃ぶりを目の当たりにする少年たちだが、それでもアシュラは先を目指す。
何かがあるかもしれないし、ないかもしれない。今以上の飢えと悲劇が襲ってくるかもしれない。しかし都を目指すアシュラの姿には、「生きる力」のベクトルが、はっきりと以前とは違う向きを指し出したことを見て取れる。
そのアシュラの前に、再再度アシュラの母が登場する。
「おめえのかあちゃんじゃねえか」と言う丹治に、
気ちがい女 気ちがい女
ただの気ちがい女だギャ!
かあちゃんじゃないギャァ!
アシュラを食おうとした気ちがい女だギャ
と叫び、アシュラは斧の柄で母を打ち据え、髪の毛を掴んで引きずり倒す。
ゆるしてやれ アシュラ
法師の言葉が頭の中で響くが、それを必死に打ち消すように「ゆるさないギャァ!」と叫ぶアシュラ。殴られても倒されてもアシュラを抱きしめる母親。
放浪の中、病を得ていた母は、そのまま涙を流しながら絶命する。
まるで彼女の亡骸を飾るかのように、どこからともなく一輪の百合が風に吹かれてきて、髪に落ちる。
その姿を見て、遺体に取りすがり、手を握って慟哭するアシュラ。まさに慟哭である。アシュラが泣くシーンはいくつもあるが、こんなに激しく声を上げて泣き叫ぶ場面はこれがはじめてだ。
そしてラストシーン。
生まれてこないほうが よかったのに
何度も繰り返されたテーマフレーズで、この作品は終わる。とんでもないブツ切り感と共に…
最初このラストを見た時、最初に強烈に胸を叩いたのは「虚無感」と「絶望」だった。
これほどの壮絶な人生の中で、ここまで成長しておきながら、結局は母を許さずに殺すアシュラ。そして結局は「生まれてこないほうがよかった」なのか…と。
しかし、読後30分くらい経ってから、違うんじゃないかと思うようになった。
これまでの「生まれてこなければよかった」は、主にアシュラ自身に向けて発したものだった。
しかし、最後の「生まれてこないほうが〜」は違うのではないか、と思ったのだ。
それはやっぱりアシュラに向けてでもあるし、子供たちも含めた登場人物全員であるかもしれないし、アシュラが見つめている私達人間みんなに対するものかもしれないが、何よりも、母親に向けられたものなのではないか?
それは、母の存在価値を否定する意味の「生まれてこなければ〜」ではなく。
愛する男に愛を否定され、妊娠を疎まれ。
狂気に至りながらも、胎児を守るために人肉を食い。
そうまでして守った我が子を、生きるために食おうとし。
それでも我が子を求めて傷つきながらさ迷い歩き、何度も拒絶され。
拒絶の果てに、暴力を受け止めて息絶えた女。
こんなに救いのない、辛い人生を過ごすのならば。
こんなに救いのない最期を迎えるのであれば。
生まれてこないほうが よかったのに。
こんな意味合いが含まれているように、どうしても思えてならないのだ。
母親を殴りながら、法師の言う「あわれさ」を感じ、「許し」につながる気持ちの芽生えを、自覚的でなくとも感じたのではないだろうか。
「気ちがい女」と罵りながらも、アシュラは斧の刃を使っていない。殺意のレベルは低く、暴力をふるうことで何かを訴えているようにさえ思える。
「生まれてこなければよかったのに」
この思いが他者に向けられる。それは「あわれみ」の自覚であり、許しへの一歩であるとも解釈できる。
憐憫と赦しが、「母殺し」という行為と同時に行われる。そういう解釈が許されるなら、なんと皮肉で壮絶な物語ではないか。
絶望で終わるように見えて、実はこのシーンは、アシュラの生き方・認識における重大なターニングポイントであり、いつか「救い」につながるものなのかもしれない。
ラストシーンをよく見れば、右側に、ユリを供えた母親の墓が作られている。これも今までのアシュラにはなかった感情の芽生えを感じさせる。
母殺し〜ラストシーンに至る画面は、意外と情報量が多いように思う。
アシュラがカメラ目線なのも、読者一人一人に対して、とんでもなく重いものを問いかけているようでもある。
ジョージ秋山は、とかくストーリーの凄さ・ケレン味で語られることが多い作家だが、「アシュラ」ではビジュアル表現力を十分に感じた。もっと「絵」の面で再発見されてもいいような気がする。
連載開始時から色々といわくのあった「アシュラ」については様々に語られていて、ラストについても、「関連騒動に疲れて、半ば投げるような形で終わらせて旅に出た」という説もある。
実際、未消化の伏線もある(散所太夫が「都の阿舎利の指示で」材木を高台に運ばせていた意味とか)のだが、私は納得できる着地点のように思えた。
ところでラスト前に突如登場する「銭ゲバそっくりの少年」。いきなり出てきて、何をするわけでもないのに印象的なセリフを吐くのでものすごく唐突な感じがするのだが、調べてみるとそれもそのはず、この版も含めた多くの版ではカットシーンがあるので、つながりが悪いのも道理なのだとか。
近年のノーカット収録は「ぱる出版」版(1993年発行)があるらしい。それによれば、この「銭ゲバそっくり君」の名前は「蟇王丸」といい、初出では布眼帯もなく風太郎そのもの(後の版で描き加えられた)だったとか。機会があったら是非ノーカット版を手にとって、カットされた部分を読んでみたいものだ。
カット分は50ページもあるらしい。
エェーー orz
(ぱる出版って、ビジネス関係の本ばっかり出している会社というイメージが強いんだが、なぜ「アシュラ」を、しかもノーカットで出したんだろう。謎だ。えらいけど。)
それにしても、この作品が少年誌に連載されたということは改めて凄いことだ。当時の風潮も大いに関係しているのだろうけど、同じ年にマガジンは「アシュラ」、サンデーに「銭ゲバ」だからなあ。
作品にOKを出すこと自体そうだが、序盤に騒動になっても、「そそくさと打ち切り」なんてしなかったことにも、当時の出版界の気骨みたいなものを感じずにはいられない。
最後まで読んでみると、「ショッキングで辛いシーンも多いが、多感な少年期・思春期にこそ最後まで読むべき作品」と自信を持って言い切れる。
秋山氏の絵の力について評価されていますが、私は大道寺さんのレビューで大満足です。日本史の教科書の『飢餓草紙』のワンカットですらアシュラを思い出してビビッていたヘタレなので。
アンドロー梅田もイイ宇宙人だと教えて下さって重ね重ねありがとうございます。
一気に読破し最終章楽しみにしていました。
「アシュラ」買ってきて読んでみたいと思います。
師匠が絶賛するはだしのゲンも最近コンビ二版買って読みました。悲惨な中にも笑いありシュールあり泣ける場面ありで大変満足しました。
いつも興味深いマンガの紹介ありがたいです。
ところで、よろしければぜひお教え願いたいのですが
ジョージ秋山の自伝的マンガを何度か立ち読みしたのですがたしかwho are you
とか言う題名だったと思います。
これは大変ショッキングな内容だったのですが秋山さんは本当にあのようなロリコン的な方なのでしょうか?
またあのマンガはノンフィクションなのですか?
すみませんがこのマンガご存知でしたらぜひお教えください。
>志賀高原の保養所でアシュラ1巻
サラッと書いておられますが、高原の清涼な空気とアシュラ。とんでもない取り合わせです。というか、気力体力の回復のための保養所にアシュラが置いてあること自体、何か根本的に間違ってるような気がします。
>「死体を埋めると臭みが抜ける」
何しろ、はじめて「文」が出てくるコマがあれですからな。半笑いのアシュラ母の顔が、妙にニュートラルでインパクトありすぎです。
自分でレビュー書いておいてナンですが、身重の最中にこんなもん読んで大丈夫だったでしょうか;どうぞご自愛くださいね。
いつもご感想ありがとうございます。
>ジョージ秋山自伝マンガ「Who are you」
「毒薬が出てる」という話は聞いていたのですが、「ジョージ秋山自身が題材」の作品はキツさもMAXなので読んでおりませんでした(特に女性についての「モノ扱い」が、同じ女性として読んでてイタすぎる)が、あちこちのレビューを読み、大体つかみました。ジョージ先生カッコよすぎ(絵的にも);なかなかこんなに自分をカッコヨスに描ける人はいないんじゃないかと思いますが、自分の生き方を描いた結果必然的にこうなっちゃったんですから仕方ないですね!
同じ「カッコヨス自画像」でも、江川達也とは次元が全然違います。アレはただの詐欺です。
>秋山さんは本当にあのようなロリコン的な方なのでしょうか?
>またあのマンガはノンフィクションなのですか?
これに答えられるのは本人(そして多分答えてくれない)だけだとは思うのですが、私は
「考え方や行動原理などはある程度本当」
「体験告白にはフィクション交じり」
なのではないか、と考えてます。
というのも、ジョージ先生は以前にも「告白」という自伝を出してます。それこそ「アシュラ」の連載後半くらいの時期です。
この作品についても、レビューを書くに当たって色々調べてるうちに知ったのですが、何しろ「人を殺した」と告白するのですから、インパクト大なんてもんじゃありません。
<参考>「オヤジマンガ図鑑」
http://tomtomsakusaku.cocolog-nifty.com/manga/2005/11/post_0eb4.html
「アキオのABC」
http://aquarium.sub.jp/8cc/g.html
「パンパンの息子で混血児」「友人や近所の大人を殺した」と告白し、その後で「あれはウソだった」と言っているそうで、結局ウソか本当かわからない(っていうか余計に不安にさせられる)んですが、今回の自伝もそんな感じで当たるのがよいのではないかと思います。