「あの世で小さい赤ちゃん二人だけで、誰も知ってる人も可愛がってくれる人も、食べ物をくれる人もいない。私がおっぱいあげなくては」
と泣いてばかりいるものだから、母は付き添いの合間家に帰った折に、自分の実家に帰ってくれたのでした。そして次の日また病院に来てくれて、
「仏壇でばあちゃんに『永二とふたばをよろしくね』って伝えてきたからね。大丈夫だよ。」
と言ってくれたのでした。
ふたばはあまりに私にそっくりなので、きっとばあちゃんはすぐに私の子供だと分かってくれるだろう…と思うことが出来たのでした。
私の実家は父が初代なので、仏壇というものがない家でずっと育ちました。幼い頃、時折母の実家に泊まるときは大抵仏間に寝ることが多く、写真ではなく細密画で描かれた遺影はなんだか妙な雰囲気で、「なんだか怖い場所」というイメージが強かったのですが、ここにきて「仏壇っていいものかも」と思えるようになりました。
仏壇に向かえば、いつでも亡くなった人と対話ができるのです。
いや、それは本当は嘘で、「対話しているような気持ちになれる」「一方的に話をしている」だけなのです。それでも、「伝わらないかもしれない思いを強く抱くことができる」装置であることは確かなのでしょう。
そんな風にして、実家から帰ってからの1ヶ月近くを仏壇に向かいながら過ごしてきました。
仏壇に限らず、神社やお寺、地蔵や仏像、家内の神棚や水神などの小さな祠、または絵馬やお守りに至るまで、宗教的な場所やアイテムはなべて「端末」なのだろう、と思いました(もちろん仏教や神道に限らず)。それに思いや祈りを込めることで、伝えたい対象にアクセスできる端末。そうしてみると祈りや宗教的な行為はなべて巨大なLANだと呼べるのかもしれません。
日本の「葬式仏教」は、仏教の教義から遠くはなれたところで定着してしまったものですが、それでもこの「仏壇」という端末システムはなかなか悪くない。実に悪くないものだと思うようになりました。
骨箱を開けて(小さな子供たちの骨は、泣けるほど少ししか残っていません。それでも、週数の行かない胎児としては、残るだけラッキーな方なのです。焼き場の方が温度を低くしてゆっくり焼いてくれたのでしょう)、小さな骨箱に少しだけ骨を移して家にキープすることにしました。
私と相方で一つずつ、恐らく頭骨と思われる骨を拾い、移し入れました。二人を一緒に焼いてもらったので当然骨は混ざっているのですが、これは一人に一つの部分ですので、多分間違いなく「二人」を残すことができたと思います。
実家の父母が来てくれて、総出でお墓まで歩き、骨をおさめました。多少曇って、風も若干ありましたが、なんとか雨は止んでくれていました。
お墓は家から歩いてすぐの場所にありますので、いつでも会いに行くことができます。
そばには桜の木があって、春にはそれなりに綺麗です。
隣には、滑り台くらいしかないけれど、二人を連れて散歩に行こうと思っていた小さな公園もあります。晴れた日には鳥海山が綺麗に見えて、庄内平野の美しい水田を見渡すことができる場所です。
三体のお地蔵さんは、地元の念仏講の人たちがいつも綺麗にしていてくれます。
すぐ側にごみステーションがあるので、夏はちょっときついかもしれないけど…そのぶん、ごみの日ごとに会いに行くことができます。
うちのお墓には相方のお祖父さんが眠っています。まさか曾孫が次に入るとは思わず、驚いていることでしょう。でも永二が相方にそっくりなので、きっとすぐに分かってくれて、相方にそうしたように可愛がってくれるでしょう。
双子たちはいきなり暗いところに行って、
Σ(´Д`*=*゜Д゜))))))ココドコ?
状態かもしれませんが…
彼らが仏壇からいなくなってしまう今日という日を、実はずっと恐れていました。でも、少しだけでも骨を分けて置いた事で、少しだけ気が楽になりました。「お墓にも、ここにもいる」。だからこれまでと変わらず、仏壇という端末から語りかけることができます。「お墓」という端末と、「お地蔵さん」という端末が増えた。そう考えるようにしようと思います。
お寺の住職さんには、身内だけで密葬をする事を連絡し、ご足労は願いませんでした(戒名もつけていませんし)。
色々イレギュラーな葬儀ではありましたが、家族はみんな心から二人の事を弔ってくれて、私達の気が済むようにさせてくれたのは本当に有り難いと思っています。
家に戻ってささやかな食事をしている最中、TVのニュースで、例の国が核実験を起こした事を知りました。うちの子の大事な日にへんな地震起こしてへんなモン散らしやがって。ガッデム。
入院中、それに退院してしばらくは、「お腹の子供を失った」という喪失感が大きくて、「二人に戻ってきて欲しい、絶対にまた赤ちゃんを今度は無事に産まなくては」という思いが強くありました。強迫観念にも近かったと思います。また、帝王切開のため1年間は妊娠できないという焦りもありました。
今は少し違っていて、「できるところまでチャレンジはするけれど、それで授からなかったらそれはそれで仕方ない」と思っています。「やるだけやってダメなら仕方ない」という思いのほかに、「二人は確かに私の中で生まれて、生きていたのだから」と素直に咀嚼できるようになった気がします。なんか上手く言えませんし、チャレンジの時期になったらまた焦ったり思い悩んだり落ち込んだりするのでしょうけど。
中原中也は幼い息子を失い、その思いがいくつもの作品の中に織り込まれています。
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
「また来ん春…」(「在りし日の歌」『永訣の秋』より)
春という命萌え出ずる季節も辛いのでしょうが、「実りの秋」もまた「実れなかった存在」を思うと辛いものです。
結局、季節が移り変わるごとに、何くれとなく思って、また思い出しては辛いのでしょう。
中原中也の詩は昔から大好きで、その時の状況や年齢によって沁みる詩がそのたび違うのですが、よもや自分が、「子供を偲ぶ歌」がこれほど胸に突き刺さる身になるとは思っていませんでした。
オヤ、蚊が鳴いてる、もう夏か――
死んだ子供等は、彼の世の磧(かはら)から、此の世の僕等を看守つてるんだ
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間・・・・・・其処に、
死児等は茫然、佇み僕等を見てるが、何にも咎めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰いたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競争心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは思ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ・・・・・・
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か・・・・・・
「初夏の秋に」(未完詩篇より)
一昨年、小学校時代からの大親友・玄機先輩が亡くなった時、彼女が待っていてくれるのならば、あの世も死もさほど怖くはなくなった様に思いました。
大好きだったばあちゃんがいて、子供たちもいる。尚更です。
大事な人と永遠のお別れをするたびに、「あの世」とか「死」は段々と怖くなくなる。むしろ慕わしい世界に近づく。そんな気がします。
祈りはきっと通じて、おじい様もおばあ様も永二君とふたばちゃんを大切にかわいがっている事と思います。
実は私の飼い猫のボタンも同じ日に亡くなったので、かわいいお二人が一緒に遊んでくれるとうれしいなァ…なんて。
大切な人たちが待っていると思えば、死は怖くはないですが、堂々と会いにいけるように“その日”までは精一杯生きたいと思います。
いろいろな事を気づかせてくれて、大道寺ご夫妻はもちろん、永二くんとふたばちゃんには感謝しています。
コメントありがとうございます。ボタンちゃんのことを読んで、さぞお力お年のことだろうと思っていたのですが、まさかうちの子と同じ命日だったとは…
ガキんちょのことゆえ、優しくしてあげるかどうかはなはだ不安ではありますが、こちらこそどうかよろしくお伝えください。
月命日に、文月さんもおうちで祈ってらっしゃるのだろうと思うと、感無量のものがあります。
>大切な人たちが待っていると思えば、死は怖くはないですが、堂々と会いにいけるように“その日”までは精一杯生きたいと思います。
そうですね…なかなかポジティブにはなれそうにもありませんが、こちらこそ一つ教わった思いです。
ボタンちゃんは、文月さんやご家族と一緒に暮らす事が出来て、きっと幸せだったと思いますよ。
>okapiさん
ありがとうございます。本当に、そうであってくれれば嬉しいと思います。
ふと思うと、平均寿命から数えれば、両親と過ごせるのもあと10数年程度。時間も、してあげられることもすごく限られているのだと今更ながらに思いました。
充実…というほど内容のある日々を送れる自身はありませんが、できるだけ後悔が少なくなるように過ごせればいいなあと今は思っております。