コメントレスを書いていて思ったのが、
「この曲名とキーとなるフレーズを『誰がために』とした石ノ森先生の頭の中には、ジョン・ダンの詩があったはず」
ということだった。
ジョン・ダンの「死にのぞんでの祈り」は、ヘミングウェイの「誰が為に鐘は鳴る」冒頭で引用され、タイトルの源となったことで知られている。
後半生を宗教者として過ごしたダンが書いた詩…というより、「説教」に近い内容で、キリスト教的なニュアンスが多分にある。
No man is an island,
Entire of itself.
Each is a piece of the continent,
A part of the main.
If a clod be washed away by the sea,
Europe is the less.
As well as if a promontory were.
As well as if a manner of thine own
Or of thine friend's were.
Each man's death diminishes me,
For I am involved in mankind.
Therefore, send not to know
For whom the bell tolls,
It tolls for thee.
(John Donne「Devotions upon Emergent Occasions, no. 17 (Meditation)」1624年)
(参考:No.17の全文原典)
ヘミングウェイの小説内での和訳(大久保康雄訳)は以下に示すとおりで、石ノ森章太郎は、少年マガジンに連載した「幻魔大戦」でもこの部分を丸々引用している。

(秋田書店サンデーコミックス版 2巻 254ページ)
なんびとも一島嶼(しょく)にてはあらず、
なんびともみずからにして全きはなし、
人はみな 大陸(くが)の一塊(ひとくれ) 、
本土のひとひら
そのひとひらの土塊(つちくれ)を、波のきたりて洗いゆけば、
洗われしだけ欧州の土の失せるは、さながらに岬の失せるなり、
汝が友どちや 汝(なれ)みずからの荘園(その)の失せるなり、
なんびとのみまかりゆくもこれに似て、
みずからを 殺(そ)ぐにひとし、
そはわれもまた人類の一部なれば、
ゆえに問うなかれ、
誰がために鐘は鳴るやと、
そは汝(な)がために鳴るなれば
これをこのままの訳で、1967年の少年マガジン誌上で大ゴマ使ってやったんだから凄い話だ。
しかも、読者層を考慮してひらがなを多用しているのだが、「なが友どち」とか「なれみずからの」とか、余計分かりづらいと来たもんだ。
このシーンは最終話(もしくは最終話の1つ前の回?)のものすごく良い場面である。
自分の力で成長し、ついに大敵シグを倒して力尽きて眠る丈。
この詩の引用後にルーナ姫たちが現れて、それまで丈の成長を促すためにあえて辛く当たった気持ちなども吐露しつつ、彼の健闘を讃えるという誠に美しいシーン。
この単行本を読んだのは小学生高学年の頃で、きちんと解釈(というか解読)できていなかったと思うが、それでもマンガの場面とあいまって「丈は一人じゃないんだ」という感動だけは伝わってきた記憶がある。
この連載は残念ながら打ち切りとなってしまったので、もしかしたら石ノ森先生が「どうせ最後だし、多少読者層を無視しても好きにやらせてもらいまっせ」という勢いで引用したのかもしれない。
それにしても1960年代の少年誌でこれをやるとは、ものすごい衒学趣味に驚かされるが、この「ペダンチック」という要素は、石ノ森章太郎の作品世界や創作スタンスを知る上で欠かせないものでもある。
で、本題に戻ると、「誰がために」にこめられた意味や謎を考える際に、ジョン・ダンの詩を知っていないと十全ではないのでは…と思ったのだった。
もちろん、これ単体で完結している「誰がために」ではあるが、「原典」を踏まえてこそ初めて味わえる言外のニュアンスなどもあるのではないか、と思い、ちょっと考えてみたい。
もちろん、昭和カラー版「サイボーグ009」が放送された1979年、ターゲットの子供たちにそこまでの知識を要求したわけではないだろうが、「ダン詩を知っている大人が聞いたら、もっと深く感じてもらえるかも」という思いはあったかもしれない。
何しろ1960年代に少年誌でダン詩を引用した人である。
大久保康雄訳は名訳だが、さすがに文語調なので若い人には分かりづらいかもしれない。
以前、浜田省吾も「誰がために鐘は鳴る」というアルバムをリリースし、その中で現代風の訳をライナーに載せているので、覚えがある方もいるかもしれない。
ちょっと拙訳を試みてみる。(詩的にまとめる英語力はハナからないので、ヘタクソなのはご愛嬌とお見逃しください;)
誰一人として、それ単体で完全な「孤島」にはなれない。
人は誰も、大陸のひとかけら。
全体の中の一部。
一塊の土が波に洗われれば、
流された分だけ、ヨーロッパは失われる。
それはまるで、岬が失われる様に似ており。
それはまるで、貴方の地所や、貴方の友人が失われる様とも似ている。
(これと同じように)
誰かの命が失われれば、私の命が削がれていく。
それは私もまた、人類の一かけらだからなのだ。
だから知ろうとすることはない、
「誰のために(弔いの)鐘が鳴っているのか」と。
それは、貴方のために鳴る鐘でもあるのだから。
大筋でこんなもんだと思う(ご指摘等ございましたらどうぞよろしくお願いします)。
この「死にのぞんでの祈り」を石ノ森氏が意識していたであろうことは、2番の
「弔いの鐘が良く似合う」
「闇振り払うときの鐘」
「明日の夜明けを告げる鐘」
↑のように、「鐘」が歌詞に組み込まれていることでも推測できる。
とすると、
「誰がために戦う」の後には、言外に
「汝(=人類)がために戦う」という内容が込められている構成になっているのだと思う。
(いや、実際言わなくても十分に伝わっているわけだけども)
また、想像をたくましくすると、
「悪に苦しめられる人の痛みは自分たちの痛みであり、それは人類全体の痛みでもある→だから他人事としないで戦う」
というようなメッセージも読み取れなくもないのでは。
また、昭和カラー版「009」は、「サイボーグであるがゆえの、半分人間・半分機械の悲しみ」とか、「時に守る対象である人間にひどい言動を受ける皮肉な場面」が強調されたシナリオが多かった。
そのテーマ・哀愁とも、この「誰がために」はとてもマッチしている。
そもそもこの作品自体が、ブラックゴーストと戦う中で、「(救うべき)人間が本質的に持つ醜さ・救えなさ」と対峙しなければならないという皮肉・絶望に満ち、それゆえに「それでも戦うのは自分たちしかしない」という石森的ヒロイズムが強く押し出されている。
それは、「ヨミ編」ラストにおいて、
「ブラックゴーストの根源は人間の心の中の、決して消せない『悪』の部分」
「ブラックゴーストを滅ぼしたいなら人間を全滅させなければならない」
という首領の言葉でピークに達するわけなのだが、それはそれとして。
コンドールマンのOPの歌詞を借りて言えば
命をかける甲斐もない それほど汚れた
「人類」に罵倒されたりするやりとりをシビアに描き、その上で「人類」のために命を賭ける。
そこまでしてやることはないのに、君たちはどうして、「誰のため」に…
というようなニュアンスの似合うシリーズだった。
(まあシリーズを通すとけっこうなトンデモシナリオもあるんだけども…)
一般人の前でサイボーグであることを明かしたり、また機械部分が露出して怯えられたり、時には罵倒されたり。そういうシーンが多かった印象がある。
また、自分がサイボーグであることを知られまいとすることで生じるドラマもあった。
例えば、「ウェストサイドの決闘(16話)」の最後の方で、ジェットの旧友が大ケガをしたために病院で輸血を求められる(ジェットは子供の頃に、彼から輸血をしてもらったエピソードが伏線として効いて来る)のだが、人工血液が流れる体となっているジェットはそれを拒否せざるを得ず、元彼女(ジェットと彼の血液型が合うことを、過去の経験で知っている)からクソミソに言われてニューヨークを去る…というシーンなどがその代表かもしれない。
また、「裏切りの砂漠(20話)」では、こんな話があった。
アルジェで元彼女(というかジョーの追っかけ)のマユミと偶然再会したジョーは、マユミの現在の恋人をネオブラックゴーストの手から守るために、依頼されてサハラ越えに同行することになる。
マユミの目の前でサイボーグであることを明かすわけにも行かず、苦戦するジョーにマユミが言い放つ。
「ジョーお願い!あたしたちを守って!…あなたのその…鋼鉄の体で!!!」
「何だって!君は僕がサイボーグだと……」
「ええ知っていたわ!…でなければ誰が…あなたなんかに……」
多分シリーズを通して最大級の「テラヒドスな一言」であることは間違いない。
その一言を聞いてキレたジョーは、通常の3倍(当社比)の勢いでネオブラックゴースト団員の皆さんに鬼神のごとき八つ当たり。
シリーズを通して「女たらし」なジョーが手痛い一撃を食らう、歴史に残るエピソードである。
この話でボロボロになったジョーが、最後に
「マユミが教えてくれたんだ…サイボーグとしての生き方を…それは無償の愛、無償の戦い…」
と呟き、まさに「誰がために」なテーマを前面に押し出すのだった。
できれば、こういう「お前、振られたってちゃんと認識しろよ」という話でなければもっとよかったかもしれないけど、まあこういうシチュエーションが多かったなあと。
…わざわざ訳したりしたわりには、「元ネタ紹介」の域を出てない記事で申し訳ない。精進します。
そして、「ジョン・ダン全詩集」を買ったつもりで買っていなかった件。アレ?
とくにダンの詩を噛み砕いてくれたことに感謝します。
>「悪に苦しめられる人の痛みは自分たちの痛みであり、それは人類全体の痛みでもある→だから他人事としないで戦う」
これ。
ということは、人類に救うべき価値があるか否かは問題ではありませんね。
主人公たちが自分を人間だと思っているか、
人類と同種の仲間であるかどうかが焦点になります。
サイボーグは人間じゃないからと割り切る道もあるのですね。
…突き詰めると同じかな。
醜い人類と自分を同一視できるか、仲間でいたいかって話になって
やっぱり人類の価値を測ることになるし。