で、もう一冊ある戦前(というか戦中)の岩波文庫の検印を見てみようと思い手に取った。

「宋名臣言行録(上)」
和田清 校閲
河原正博 訳註
(3386−3388b) 定価:1円
昭和19年の初版である。
和田清先生といえば、宋史研究の大家。
「これはもしかして、和田清タンの生ハンコゲットか?」
とハァハァして奥付を見たれば、河原先生の生ハンコだった。
基本的に和田氏はこの訳に当たって、岩波書店に河原氏を推薦し、その責任上校閲と序文を手がけたという感じだったらしい(序文より)。
私(多分)が学生時代、仙台の萬葉堂書店より1000円で購入。
奥付を見ると、昭和15年のものとは随分変っており、たくさんの発見があった。

これがその奥付ページ(それなりに貴重だと思うので、少し大きめ画像でスキャンしています。クリックすると大きくなります。)。
昭和十九年十一月十日 印刷
昭和十九年十一月三十日 第一冊発行
凸版印刷株式会社印刷
下津製本
(許)定価 壱円
査定番号 八ノ三九1種
出版会認定 う30141号 15,000部
発行所
東京都神田区一ツ橋ニノ三
岩波書店
会員番号三四〇〇九〇号
配給元
東京都神田区淡路町二の九
日本出版配給統制株式会社
河原正博氏略歴
昭和十五年東京帝国大学文学部東洋史学科卒業
現在亜細亜文化研究所研究員
岩波文庫に著者略歴が付いているのも相当珍しいが、それよりも、昭和15年には表記されていなかった情報部分が増えていることに注目したい。
やたらに「許可」だの、「査定番号」だのが付いている。
最も目を引くのは、最後にある「配給元」の表示だろう。
太平洋戦争の末期、日本はとにかく何もかも物資が足りなかった。
その中で出版物も統制・規制のもとにあった当時の社会状況が、この奥付ページ一つで雄弁に語られている。
「日本出版配給統制株式会社」は、戦時中に日本国中の出版流通を独占し、その名の通り配給・統制の国策に従って取り仕切っていた会社。
もともとは多数の取次会社が、国策として強制的に解散&再結合された「日本出版配給株式会社」が、19年に改組したもの。
通称、「日配」。
(現在、本屋業界で「日配」といえば、大手取次「日本出版販売」のことだが、この会社も、別の大手である「トーハン」も、この「日本出版配給」を母体とした組織である。)
wikipedia「日本出版配給」の項
日配が創立される以前、取次は四大雑誌元取次(東京堂・東海堂・北隆館・大東館)の他、書籍取次や中小取次も合わせ全国に300社あまりが存在していた。
1941年、政府は全国の取次240社あまりを強制的に解散させ、これらを統合した一元的配給会社として日本出版配給株式会社が設立された。型式上は株式会社で、役員も旧取次からの横すべりが主で一見民営のように見えるが、役員の選任や重要事項の決定には監督官庁の承認が必要とされるなど、実質的には政府の統制下に置かれていた。 これ以降、出版物は検閲を受けた後、奥付に配給元日配の名と出版社の住所を明記しなければ日配は配本しないと定められ、日配は言論統制のための機関となる。
昭和15年との相違点を具体的に見ていくと
・価格的には1円=★5つだが、奥付には星の数がなく、ただ背表紙にだけある。
・定価の部分に(許)(本来はマル囲み)というマークがある。
・発行所(岩波書店)の部分に会員番号が表記された。
・出版会承認番号+発行部数がある。
といったところだ。
(奥付以外の部分は、裏表紙の定価の欄に「マル許」がついているだけで、あとは統制や検閲を思わせるようなマークや番号の表記はない。)
発行部数については、こうして後世から見ると貴重な資料ではある。
承認番号にある「出版会」とは、検閲・統制機関である「特殊法人日本出版会(昭和18年までは「社団法人日本出版」)のことだろう。
国立国会図書館のサイト内 常設展「戦時下の出版」に関するページより。
ひとくちに戦時下の出版といっても、それはとても広い概念です。そこで、日本出版文化協会(のちの日本出版会)が行った図書推薦事業に焦点をあてることにしました。日本出版文化協会は昭和15年12月に成立し、昭和18年には改組されて日本出版会となりました。内閣情報局の監督下で出版企画の事前審査や印刷用紙の割当査定を行い、出版界の統制および出版業者に対する文化指導の実施機関として機能しました。こうした活動の一環として行われた図書の推薦には、当時から賛否両論があった様子で、書評誌『書物展望』にも、これに対する期待と批判の記述が散見されます。一方、出版史研究者の岡野他家夫氏は著書『日本出版文化史』において、日本出版文化協会の良書推薦事業を「功績の一つ」と評価し、さらに戦況が悪化した昭和18年以降の推薦図書についても、「必ずしも軍や政府の御用向の図書のみが候補にのぼるということはなかった」と振り返っています。
【社団法人日本出版文化協会】
日本雑誌協会・東京出版協会等の出版関係諸団体を糾合して昭和15年12月19日に設立。内閣情報局の監督下で出版統制の実施機関として機能し、昭和18年には、出版事業令に基づく特殊法人日本出版会として改組された。
【日本出版配給株式会社】
全国の出版物取次業者を統合して昭和16年5月5日に設立。日本出版文化協会(日本出版会)の指導のもと、協会員が発行する全書籍雑誌の一元的配給を行った。
出版に必要不可欠な「紙」の配給割り当てなども、出版数を差配することで管理していたようだ。
岩波文庫が、前述の記事にて書いた「菊判裁(ちょっと縦長)」から統一文庫版サイズ(A6)に変ったのも、日配ができた1941=昭和16年。
配給した紙に本の判を合わせるという意味合いもあったようだ。
引用記事内の、「当時の出版物が軍国・国粋のものに限られたわけではない」という旨の記述があるが、この本が審査にパスし、15000部が出版されたところを見るとある程度真実なのだろう(何しろ当時絶賛交戦中の、中国の歴史に関する本なのだから…)。

写真では余り伝わらないと思うが…とにかく汚い。
汚さでは昭和15年のはるか上を行く。
いや、本の状態など、保存状況や持ち主の取り扱いでどうにでも変るものだ。ここで問題にしているのはそれではない。
紙の質や印刷状態、紙の裁断などのクオリティが、明らかに落ちているのだ。
触ってみるとたちどころに分かる。
特に表紙の質がまるっきり違う。
昭和15年の表紙は、今触っても厚みを感じ、見た目も中の繊維を感じない、滑らかでツルツル感の適度にある紙。「岩波ベージュ」も健在だ。
しかしこの昭和19年の岩波文庫の表紙は、触った感じが明らかに「心もとない」、薄い紙。和紙っぽい繊維がところどころに目立つ。ペラペラパリパリした外観で、色もできるだけ岩波ベージュに近づけてはいるが色合いが異なる。
またインクが乗りにくいのか、表紙のタイトル部分が滲んだように仕上がっている。

本文内でも、ところどころの滲みや汚れ、大胆な位置ズレがあちこちに見える。
おそらく、当時貴重品であった紙の状況では贅沢は言えず、また配給されたものを使うしかなかったため、仕方なかったのだろう。
中の紙も薄く、周囲部分の日焼けや酸化が相当進んでいる。
印刷や製本についても、男性工員が大量に徴兵されて人手不足・技術不足だったのかもしれない。
劣化が激しいため、奥付ページのスキャンも慎重にやらねばならなかった。
巻末の「近刊紹介」がないのも、紙の節約のためだろうか。
この本の総ページ数は312。で、1円。
岩波文庫発売当初の「100ページ20銭」の原則から見ると随分高くも思えるが、それだけ物価が変動+紙やインクが貴重だったということだろう。(ちなみに当時の1円の価値は、今で言えば1000〜1500円程度の体感だったようだ。)
また、昭和15年にはついていたしおり紐が消えている。
サイズの文庫版化もそうだが、この統制時期にやむなく変更した外観が多かったのではないだろうか。
本当にモノがなく、苦しい時代だったことを、この一冊の文庫本が本当に雄弁に物語ってくれている。
今までも、両親や祖母から戦時中の話は色々聞き、大いに勉強になったけれど、生の「モノ」が語る説得力もまた別種の強さを持っていると感じた。
これを購入したのは仙台の古本屋だったのだが、仙台の戦災を生き延びたものなのか、それとも他の土地から来た一冊かは知らないが、当時あの状況の中で「宋名臣言行録」を買ったのは誰だったのか、学生だろうかそれとも女性だろうか?などなど、いつもはしない妄想が膨らんで、一冊の本がまるで「名も知らぬ遠き島より流れつく椰子の実」状態になってしまった。
その気になって精査比較すれば、ただの文庫本一つでも大いに歴史を語ってくれるものだ。
鉄道と同じく、古本にもさまざまな楽しみ方・ハマり方があるのだが、それにハマる人たちの気持ちが少しだけ分かったような気がした。カッコつけた言い方をすれば、古本を買うということは、当時の社会や空気を切り取った一片を買うことにも似ているのかもしれない。