2007年07月03日

レフトアンドライト(2)WEBサイト

前回のエントリーで、横澤彪が国分太一(左利きで、左手で箸を持つ)に対し「左手は ケツを拭く手だ 箸持つな」というすごい妄言をWebに掲載したことを書いた。
このコラムのコメント欄には案の定批判が相次いだ。「炎上」というほどの数とは言えないものの、ちょっとした発熱でも「すわ炎上」と騒ぐ傾向のあるJ-CASTの内部が炎上するという珍事といえば珍事だったが、特にJ-CAST側からのアナウンスや記事などはなかった。

早速批判が出た翌日に、それを意に介さないかのように関係のない内容のコラムがアップされたことにもまた批判が出て、数日休みがあったと思ったら、ようやく「箸は右手で持とうよ」記事へ言及した新着記事が更新された。それはなかなかスゴい言い訳だった。
もうタイトルから本題だ。

国分太一くん、オレも左利きなんだ

そう来たかい。いや夜中に噴き出してしまったんだが…

その要旨を三行でまとめると、

俺は元々左利きだったが矯正された。娘も左利きだったのでそうした。
直したのはそれが和食のマナーであり日本の作法の基本だからだ。
芸事に携わる以上、国分くんも右持ちにすべき。


というもので、結局

・俺の常識が世間の常識
・俺はそうした。お前もそうしろ


という論旨に留まり、肝心の国分氏やその親御さん(躾云々書いた以上は、ご両親や祖父母もひっくるめて揶揄したことになる)へ謝意を表すような文は全くなかった。


6月27日に掲載された「国分太一くん、箸は右手で持とうよ」という一文に、読者のみなさんから多くのコメントが寄せられた。その中身は「左利きへの差別だ」という批判が多かった。でも、実はオレ自身も、太一君と同じ左利きなんだ。

小さいころ左手の箸について厳しく注意され、直すのにものすごく苦労した。娘も同類だったので、特殊なスプーンを買ってきて右手で箸が持てるようにした。だから、左利きの人を非難したり、軽蔑したりするつもりはない。


思えばこの言い訳はなかなかズルくて巧妙である。
なぜなら、親兄弟でもなければ、「元左利きを右に矯正した」ということが事実かどうか検証しようがないからだ。
「横澤さんが左手使うところなんて今まで見たことなかったですよ?」
「だから小さい頃に右手使いに直したんだよ」
と言われればそれ以上追求できないもんな。…まあ娘さんまで引き合いに出しているのだからウソではないのかもしれないが。

しかし、

だから、左利きの人を非難したり、軽蔑したりするつもりはない。


とは言うものの、前回「右手持ちに矯正していない左利きの人を非難したり、『きちんとした躾でない』と軽蔑した」ことは払拭できないし、そのことに対するフォローはまるでできてない(というか、後に続く文章を読んで分かるように「する気がない」のだが)。

右手で箸を使ったほうがいいと思うのは、それが食事のマナー、作法だと考えるからだ。日本の文化では右手で箸を持つのが食事の作法とされてきたし、箸の置き方や料理の配膳の仕方は、右手で箸を持つことを前提にしている。


日本の食事マナーが右手使いを前提に構築されてきたことは確かにその通り。
いわゆる「お膳立て」も全て右手箸を基本に構成されている。
・箸先を左向きに置く
・茶碗は左、汁椀を右に置く
・魚は頭を左に

これら全て、右手での食事をスムーズに、しかも見苦しくなく行うために長年のうちに築かれた合理的な配置である。
私も小さい頃から台所仕事や配膳の手伝いの中で、間違えば母から「大人になってから恥ずかしいよ!」と注意されながら躾けられた。また実際、いい年をして箸や食器を並べる際に箸の向きもきちんと置けない人を見ると、「あんまり手伝いとかしなかった人なんだろーな」とは思うことがある。
しかしこれはあくまで「原則」。
席に付く人があらかじめ左利きだと分かっていればそれにはこだわらずセットするし、左利きの人が席についてからさりげなく配置を変えていても無作法などとは感じない。

実際、ちょっとサービスに気の聞いた店のサービスマンならば、左利きの客に対しては臨機応変に対応してくれるし、左利きの人も気を使って左端の席に着いたりもしてくれる。
洋食ならばもっとフレキシブルで、そもそもフォークとナイフの持つ手を逆にすることが無作法でもなんでもない文化なので、すぐにシルバーのセッティングを変えてくれる。
中には店主やら中居がエラすぎて作法にガチガチな店もあるかもしれないが、まともな和食の店で、懐石や茶の湯の大元の理念を分かってるところであれば、「形よりもコンフォタブルに料理と時間を楽しんでもらうこと」に主眼を置いているはずだ。

そして国分太一君に「箸は右手で持とう」とあえて注文をつけたのは、彼が「芸事」にたずさわるタレントだからだ。たとえバラエティであっても、テレビ番組で食事をするのはプライベートではなく、れっきとした仕事である。メシを食うのも芸のうち、なのである。

この前、太一君が主演した「しゃべれどもしゃべれども」という映画を見た。若い落語家という役どころを見事に演じていた。その落語の世界では、箸はかならず右手を使うように訓練する。型として決まっているということもさることながら、左手でそばを食ったら別の人物になりかねないからだ。

桂米助という落語家がいる。根っからの左利きで、矯正するには非常に苦労したらしい。あるとき、彼が出演した「隣の晩ごはん」というテレビ番組でうっかり箸を左手にもってメシを食ったところ「噺家の風上にも置けない」と、ふだんは温厚な師匠の米丸からこっぴどく叱られたという。


ここでもう一度、「日本文化と右利き」について考えてみたい。
あまり遡ってしまうと色々面倒くさいので、「昔」といってもせいぜい戦国〜江戸時代あたりまでにしてみる。
確かに伝統文化の中のさまざまな決まりごとは右手持ちが基本になっている。というか、「左利きの人はこうする」という概念自体がない。
使う道具や所作の全ての基本が右利きのものであり、それ以上に「型」がそうであるからだ。

日本の武道、舞踊や能・雅楽などの芸能、書道、また茶道にも華道にも「基本の型」がある。和食の世界のマナーは茶の湯・懐石料理のそれが元になっている。
で、特に戦国〜江戸期に定着し、現在「なんだか高尚な和の文化」ととらえられる文化のほとんどは、「武士の文化」もしくは「武士の作法にそれ以外の層が倣った文化」と言えるものが多い。
では「武士とは何か」といえば、もうこれは江戸中期を待たずにほぼ形骸化するけれども、建前としては「ソルジャー」だと思う。
つまり、「常に鍛錬を怠らず、国や家・自分や同胞の体面に関わることがあればすぐに戦場に赴き、しかも多くの場合集団で戦える」人間でなければならない。
この「集団で戦闘」というのが武道(特に剣道や棒術・槍術)の型などを考える上で非常に重要ではないだろうか。
「俺は左のほうが使いやすいから」と好み好みで持ち手や剣の出る方向を変えれば、隊列や陣形を組んでの戦闘の際にはジャマで仕方がない。そもそも日本刀の作り自体が左利きにはなじみづらい。
また、「俺は左利き用の刀を特注するからいいもんね」としても、途中で刀が折れたり血糊で斬れなくなったりした場合、予備や他人の刀を借りて使う場合に勝手が違ってしまう。
また、合戦の際に鉄砲の存在が重要になってくると、これがまたガッチリと右利き仕様なのでやはりそれに倣う必要がある。(火縄や火薬の炸裂する方向が左側にあるため。そもそも現代でも基本的に排莢は左側に飛ばす銃が多いのだ。)
ゆえに、戦いの作法は必然的に右手中心となる。

前回のエントリーでの星野くんへのコメントにも書いたが、そういうわけで、右手で抜くために刀は左に差す。
武士の鞘がぶつかりあうと、即決闘になることも多くトラブルの元だった。だから思い思いの方向に刺すことはなかった(これはもう着物の合わせのようなもので、作法以前に板に付いた「衣」の習慣といえる)。
自然に、鞘がぶつからぬよう左側通行になる。
左側には常に家やら壁やらがあるわけで、敵が襲ってくるなら必然的に右側から。何かあったときにすばやく敵に対応するなら当然右手で刀を抜かなければ不利。だからやっぱり刀は右で抜くということになる。

右手を使うのが当然な武士たちが庇護して発展したのが茶道。だから茶道の所作も右手が絶対前提(現代は流派によってまたフレキシブルさが違うだろうが)。そこから生まれた懐石料理⇒和食文化もまた右手持ちが基本とされて、さまざまな約束事が形成されてきた。左利きへの配慮が生まれなかったのではなく、あくまで「左を常時使う」という発想自体がなく、茶道を嗜む人間達も左手を主に使うということはなかったのだ。
さらに、当時の食事の風景を考えてみると、決してゆとりがあるとはいえないスペースで、小さな膳を前に、同僚なり家族と横に並んで正座して食べるのが基本。
並べた皿のほかに、ナイフやフォークなどを置くスペースのある西洋の食卓と比べてみると、明らかに左右の余裕が乏しい。その中で一人だけ左箸であればやはり肘がぶつかってジャマになることも多いだろう。

加えて書道。東洋人が見て「美しい」と感じるために必要な「とめ・はね・はらい」は、右で筆を持たないととても難しい。
江戸時代も下るうちに、富裕層以外の子どもも手習いをするようになると、筆を右で持つこと、また算盤の操作などもあって右手使いのほうが何かと便利になっていったことだろう。
また、日本において日常使うツール(出刃包丁や切り出し小刀、鎌など)も右手でないと使いづらいものが多いことも影響したに違いない。

落語…といっても色々ジャンルがあるが、映画で国分氏が演じた主人公は、特に古典落語の道を志す落語家の役だったという。
古典落語に登場するのは、熊さんも八っつあんもご隠居もひっくるめて江戸時代の人物。そして噺は「一人で江戸時代の人物を何役も演技する」芸能なのだから、「噺の中の所作では右手だけを使う」のは当然だし、「そのために常日頃から右持ちにしろ」と指示する師匠がいるとしても、それはそれでメソッドというものだから構わない(事実国分氏もそのためにトレーニングしてそのように演じたのだから何も問題はない)。
何しろ演じる役は、「右手と右足を同時に出して歩いていた」人たちなのだから、極めようとすればそのくらいのメソッドはありだと思う。
(「右手と左足を出す」という、今では当たり前に誰もがやっている歩き方は、幕末に西洋式の錬兵術が取り入れられて初めて日本に輸入されたもので、それまでは同方向の手足を出して歩いていた。いきなり歩き方から変えられて悪戦苦闘する武士たちの様子は、映画「隠し剣 鬼の爪」においてよく表現されている)

もし国分氏が落語家なら、「右手で箸を持つなよ」という批判はさほど的外れではないかもしれない。
しかし、「メントレ」や「ゴチバトル」、他の食事シーンのある番組やCMに出演する時の彼は、あくまで「国分太一」という一人のキャラクターと歴史を持つ人間として、タレントである。
落語家や講談師でも、礼法や茶道の師匠でも、武道や書道の師範でも、伝統芸能の伝道師でもない。
だいたい、「芸事」という単語で、「伝統芸能継承者」と現代の「芸能人・タレント(もはや現代においては、一芸or容姿と運に恵まれていればなれるし、作り出すことも容易)」を一くくりにすること自体に無理がありすぎる。
この論で言えば「左で箸を持つやつはTVには出るな、芸能人になるな」という極論も導くことができる(自分自身が同一視しているのだからね)。
調べてみると、国分氏は箸は左持ちだが、文字やギターを引くのは右手らしい。
文字については、「小学校では書道の授業があるし、困らないように」ということで、お父さんが右手で書くように教えたとのこと。箸については矯正を行わなかったのか、もしくは試みたが定着しなかったのか、そこはわからないが、それもひっくるめて彼を形作る歴史なのだから別に非難されるようなことではない。


明治以降、日本人は右手と左足を出して歩くようになったけれども、「道具は右手で使うのが当たり前」という常識は根強く残った。
色々な要因が考えられる。
江戸時代の中で洗練された文化が「作法」として人々の中に根付いたことが一つ。
道具が西洋化してきても、ナイフやつけペン・万年筆、鉛筆を削るための切り出し小刀などの道具はやっぱり右手が有利であったこと。
また、明治以降、国民全男性が「ソルジャー」として、しかも形骸化していた武士ソルジャーどころでなく、すぐに呼び出され、何度も戦場に駆り出されて訓練を受けるリアルなソルジャーとして位置付けられたことが大きいのではないかと考えている。
一糸乱れぬ行軍、団体行動。刀を下げて銃を担いで行軍する時、一人だけ左しか使えないなどということはまず許されない。また銃がメインの武器となることで、「右手じゃないと話にならない」度合いはますます高まっていく。よき国民・よきソルジャーであるために、右持ちであることは必須だったのだろう。
横澤氏は昭和12年生まれ。この世代は小学校低学年で軍国教育は終了しているとはいえ、彼らに躾をした親・祖父母世代はバリバリの戦中派(というか明治生まれもザラだったろう)ということを考えれば、「困らないように」「躾として」左利きを矯正されたことは別に驚いたり批判するにはあたらないことだ。
その時代に、「利き手を無理に矯正することは発育上害をもたらすことがある」などという考えは全くなく、誰もが「子どものために」と矯正を行ったに違いない。

しかし、医学的な研究や矯正のデメリットなどが報告され、躾のメソッドが変わっている現在において、「俺は矯正された。娘も矯正した。それが日本文化だ。そうすべき。」と主張するのは全方位に納得される正しさとはいえないだろう。
日本の伝統文化が右手使いを基本としているのは事実だが、「全ての左利きを矯正させる」ことを「文化」と呼んでよいものだろうか。

また、茶道など「型」の定まっている分野を極めようとするなら「右手を左手同様使えるように」というトレーニングが必要なこともあるだろうが、現代の日常的な食文化においては、サービスをする側もそこまで要求することはない。
加えて、通常の急須や出刃包丁などは左右非対称な構造のため、左手用にしつらえたものでなければ左利きの人には使いづらい道具だが、箸はそんなことはない。
左右対称の形をしているから、左利きだろうが右利きだろうが、利き手に持つだけで、代わりのものを用意させる必要もなくいつでもどこでも使える、非常に互換性に優れたツールなのだから、使いやすい方で使えばいいと思う。

そもそも、「食文化うんぬん」を理由に持ち出すのであれば、前回「ケツを拭く手だ」などと書いた内容と全く整合性が取れないことを、この人は理解しているのだろうか?
悪いが、前稿からは、「伝統的な食文化を重んじるのであれば箸は右で持とう」という主張は感じられなかった。ただ国分家の躾をくさして、「ケツを拭く手」と言いたかっただけだろ?という内容なのだが…

太一君には役者として大成してほしい。テレビを見ている多数の視聴者に対する影響力も考えると、日本の食文化にのっとったマナーを大切にしてほしいと思うのだ。今回はそんなことが念頭にあったので、つい言葉に勢いがついてしまったのかもしれない。


とまあ、「見てる人が"左で持って当たり前、矯正しなくていいんだ!"と思っちゃいけないから、人気者だからこそ矯正して右で持て」と〆ている。
…本当にこの人、これでフォローのつもりなんだろうか?
結局、「左利きを矯正しないヤツはダメなんだよ!」で終わっていて、「自分の中の常識が世の中の常識なの、従わないと無作法なの!」ということで、フォローやら自分の非礼を認めるやらということは絶対にしたくないらしい。
まあねえ、この年代になると誰しも自分を曲げなくなるもんだけどもね…
posted by 大道寺零(管理人) at 18:47 | Comment(6) | TrackBack(0) | WEBサイト
この記事へのコメント
 前のエントリは後日見たのでコメントしていませんでしたが、わたしは元来は左利きです。箸と鉛筆は親から厳しく躾られ、「決して左で持ってはならない」とされたので小学校入学時には右手中心の生活をしていました。箸も鉛筆も左ではまともには扱えません。
ただし、普通の右利きの人が試しに左で字を書いてみたときよりも、わたしの左で書いた字のほうがまともだったことはあります。

 前回エントリ中のコメントに利き足の話など出てきましたが、普通、手が右利きの人は左が軸足になります(体を動かしたりひねったりするとき、そのほうがバランスが取れますよね)。また、前回ご紹介のあった「左利きの小ネタ」のサイトに既出かもしれませんが、たいてい利き目も手と逆になるようです。わたしは、手が右利きの人で右目中心に物を見る人に会ったことがありません。これらからわたしは利き手は脳神経に非常に強く関連していると推測しています。

 以前自分の日記にも書いたことがあるのですが、顕微鏡の接眼レンズ(目を当てて覗き込むレンズ)は、左側に目盛り入りのレンズを入れます。多くの人が右手が利き手で、左目で物を見るからです。(わたしたちは両目で見ることによって遠近感を正確に認識していますが、両目とも同じ比重では使っておらず、主に使っている片目があるはずです。試しに手で片目を覆ってみて、視野が両目で見たときとほとんどぶれなかった場合、そのとき覆わなかった目が利き目です。)
 わたしは右目で物を見ているので、通常のセッティングをされた顕微鏡では目盛りが読めません。努力すれば左の目盛りを読めますが、疲れるのでたいていレンズの左右を入れ替えて使います。

 さて、運動選手などで左利きが多かったり、器用に両手を使うのがかっこうよく見えるので、逆の矯正をしたりする例もあるようですが、左利きの運動選手が突出するのは、スポーツとは平凡であっては勝てない、敵を出し抜くものなので、少数派で右利きの人にとっては不思議な動きをする左利きの人が有利になりやすいのではないでしょうか。そういう点から左利きを認められた人は、左利きを温存しながら右手を使う練習もできるので、あまり混乱せずに運動能力を発達させられるのかもしれませんね。
一方、わたしはものすごく運動音痴です。ただし非常に健康ですし、スポーツジムで体力測定をすると一般人としてはかなり良い線の結果となります。筋力や柔軟性などはそれなりにあるのです。
ところが、一切スポーツを楽しむことができない。
右手でボールを投げるよう躾られましたが、足は右が軸のまま、目は右目で見たがる、これによって敏捷な動きができないのではないか、と考えています。
親は必死で右手で物を持たせましたが、軸足の矯正なんか考えていませんでしたし、目にいたっては親の努力で変化するものではなく、持って産まれた特性としか言いようがない。
 最近は無理な矯正はしないほうが良い、という考え方が出てきているのを知って、安堵とともに、変な方向の矯正をする親もいるらしいことには暗澹たる気持ちになりました。お年寄りが考え方を変えられないのは仕方がありませんが、叩かれて叩かれて矯正されるというのは、つらいものです。箸は、ナイフフォークより肘を張る感じがあるので、左利きだと左隣の人とぶつかるため、右で持てたら気楽だとは思いますが。長文失礼しました。
Posted by Felice at 2007年07月03日 20:54
 すみません、ちょっと付け足し。

 Winではマウスの左右のクリックボタンを入れ替えて左利きでも対応しやすい(? 人差し指でメイン動作ができる)ようになりますが、わたしはこれが左利き用にはあまり感じられません。
多分、ポインタが左にやや傾斜した矢印で、右利き用のままだと思うんですよね・・・
ゲイツが左利きだからこういう機能を搭載したのなら、ポインタも左利き用に右に傾斜した矢印にして欲しいなあw
Posted by Felice at 2007年07月03日 23:33
>>Feliceさん

Feliceさんも元来左利きだったのですね。やはり実際利き手が左、さらに矯正を体験された方のお話には色々気付かされることが多いです。

>普通の右利きの人が試しに左で字を書いてみたときよりも、わたしの左で書いた字のほうがまともだったことはあります。

日記にアップしていただいた画像を拝見しました。確かに普段字を書かないほうの手で、しかもマウスでこれだけの字を書けるのは、元来の利き手の底力というものでしょうね。私も左手で字を書くことを試みた時、「ひらがなや漢字って左手だと実に書きにくい」と思いました。特に「ま」「み」などの丸める部分とか、「し」「も」などの、ニュルっと右にはねあがるところとか。

>利き目

私もテストしてみました。
(2mほど離れたものを両目で見て指差し、そのまま片方ずつの目で見て、指先のズレが少ない方が利き目というやつ)
明らかに左が利き目でした。なるほど。

>左利きの運動選手が突出するのは、スポーツとは平凡であっては勝てない、敵を出し抜くものなので、少数派で右利きの人にとっては不思議な動きをする左利きの人が有利になりやすいのではないでしょうか。

野球でピッチャーの左投げが有利なのはまさにそれですね。(手の出てくるところが見づらい、特にサイドスローの場合+中学高校のレベルではチームメイトに左投手が少ないことが多いため、どうしても目が慣れない)球の軌道だけで言えば右打者有利だそうですが。
逆に野手は、ダイヤモンドの回り方の関係上右投げのほうが都合がいいようです。
また、左打ちの場合、打った後に自然に一塁側に体が向くので走塁に有利なのだそうです。

まあ理由は色々ありますが、単純に「端から見ていてカッコいい」というのはありますよ、右利きからすると。

でも、Feliceさんのお話の「矯正された手で、強制できない軸足と利き目を使って動くことが難しい」というのは非常に説得力があり考えさせられました。完全に右利きに矯正するというのであれば、手だけではバランスが取れない場合もあるということですね。

>>矯正

そうですね、叩かれたり叱られたりばかりしていては、本来楽しいはずの食事やらお絵かきやらも恐怖に支配されたものになってしまいますしね…
ヘンな地方性があったり、矯正論者のジジババと同居してたりする時に苦労する親御さんも少なからずいらっしゃるようです。
今回の横澤氏のコラムは、呼んでいて胸というかこっちの頭まで悪くなりそうな内容でしたが、これを機に、私のように矯正の悪影響を知る人が増えたのであれば少しは意味があったのかも?

>winの左利き
>ポインタが左にやや傾斜した矢印で、右利き用のままだと思うんですよね・・・

あぁ〜なるほど。
これも言われないと気がつかないことです…

検索していて興味深い記事を見つけました。
http://spooky.jugem.cc/?eid=317

振り回して遊ぶwiiのリモコンで、剣やらラケットを振るう体感的なゲームにおいて、右利き基本仕様になっているため大いに違和感を覚えるという記事。
特に、シリーズを通して左利きだった「ゼルダ」のリンクが、wiiの作品から急に右利きになってしまったという話⇒これまで築いた「リンクは左利き」という世界観やキャラクターのパーソナリティを自ら壊す行為ではないか、という意見には頷かされました。
コメントによれば、「wiiスポーツ」では左利き設定が可能らしいのですが。
Posted by 大道寺零 at 2007年07月04日 01:32
記事見てガックリきましたよ。
その翌日も懲りてないかのごとき記事を書いてましたからね・・・
他の記事とか見ると、ちょっとしたことにも即対応してるかのごとき書き込みとかあったりするのに、彼の記事にはノータッチ・・・J−CASTは何を考えてこの人の記事乗っけてるのやら?
Posted by しろ at 2007年07月04日 15:29
まぁ刀は左に差すのが基本で、古来武士道においても必ず左側とされる
これは零さんの言うとおり接触事故(鞘当て)を防ぐ為であり隊列を乱さぬ為でもある
刀が近くにある人は抜いて構えてみると良い
剣道・剣術の基礎は一刀流の正眼、この時に左手は柄尻を持つことになる、それが支点
抜き様に全てを賭ける居合術なら絶対に右利きでなければ無理だが…
(右手に刀を持ち、左の居合術で斬るという技もあるがそれは例外)
さて、左利きの剣士で有名なのが新撰組の斉藤一であるが…
彼は新撰組の中では一番と言って良いほど「殺し」に長けていた
中でも「左一本刺突」はまさに必殺技であった
「るろうに剣心」にも出てきているが「牙突」は作者が考えた技ですw
突き技で壁が破壊出来たらスゲーw
何故、彼が強かったかというと、「初見故の必殺性」があったからだ
あの時代、同じ敵と二度対峙するというのは稀な事である
一度目でどちらかが死ぬからなんだけどね…
左利きの技というのは、ある意味「対右」に特化している、つまり相手が右利きなら勝つって事だ
だから彼は強かったんだろうなぁ…

俺も多少は武道を齧ってはいる
実は「右変形組み手」という組み手で「対右」は物凄く得意
基本は右利きで、殆ど全てを右手でこなすが、戦う事に関しては「左利き」と言える

長々と書いてしまって申し訳ないが、左利きというのは俺からすれば「対右特化」と言え、強いのだぞと言いたかった

少しだけ左利きに憧れていたりするw

「左一本刺突!」
ネェネェ!(。・ω・)σ)´Д`)プニッ♪

お後が宜しいようで
Posted by 星野 渡 at 2007年07月04日 20:54
>しろさん

まあリアルで「ひょうきん族」見ていた世代としては、あのひょうきんディレクター横澤にマジになるのもそろそろアホらしくなってきたところなんですがw
(というか、食事マナー以前に、PTAに「食べ物で遊ぶな」と言われまくってたような…)
結局この記事って、自分の利き腕観が何に基づくかを書いただけですよね。利き腕観はそれぞれの人間で違っていても仕方ないと思いますけど、最後には矯正すべしと押し付けているところが脱力でした。
まあきっと本人はこれでフォロー完了のつもりなんでしょうな。

>>渡君

前のエントリーのお返事コメントにも書いたんですが、「斎藤一左利き設定」は、子母澤寛の小説内で初めて登場した創作の可能性が高いのですが…
(谷三十郎を斎藤一が殺したという場面で、切り口から「左の突きで殺されている」「斎藤も左の突きが得意だよな」といわれて斎藤がばっくれるというシーンですが、そもそも時期的に斎藤が暗殺実行するのは不可能であり、また、識者によれば、切り口から右の突きか左の突きかを判別するのは不可能だそうです)
まあ実際左持ちの剣士は、「普段立ち会わない形なので対応できないという強み」という変則的な強さがあるのは確かでしょうが、史実とフィクションは区別した上で、「創作上」「フィクションでは」と前置きなさるのが無難かと思いますが。
Posted by 大道寺零 at 2007年07月05日 11:52
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