2008年01月13日

あんたこの踏み絵どう思う漫画

「人間それぞれなんだし、他人様の家の話をアレコレ考えたところで仕方がないよ」と相方が言うのは多分正しいのだけど、どうしても何か一言…というか自分の考えをまとめておきたくて書く。そうせずにはいられないな、と思わせられた話を昨日読んだ。
引用が長くなってしまうがご容赦いただきたい。
(また、Blog主の奥さんについて言いたいことを言いまくるけれども、あくまで「文章内から自分が読み取った範囲」でのことなので、奥さんの実像とはかなり隔たりがある可能性も最初にお断りしておく)

●大切な物を妻に捨てろと言われた (- Aerodynamik - 航空力学)

昨晩、妻にものすごい剣幕で怒鳴られた。

何事かと思えば、俺の青春時代のバイブル、松本零士「男おいどん」を手にしている。

その後しばらく続いた妻の説教をまとめておく。

---

初めて読んだけどこんな酷い本はない。

主人公は不器用で要領が悪く、社会とうまく付き合うことができない、だけど馬鹿正直で、世間の中で自分だけが真っ直ぐに生きていると思い込んでいる。

これはあなた自身だ。

こんなものをバイブルとしているメンタリティに大いに問題がある。

現代社会で生きるうえで、確実に「負け犬」に繋がる思想だ。

こんな本は家に置いておくことすら許されない。

即刻捨てなさい。

捨てない場合は私が家を出て行く。

どうしても読みたいと言うのなら、社会的に成功した後に買いなおせばいい。


---

まあこれはこれで正論なのだけれど。

思い出の詰まった大切な本を捨てろと言われて、とてもショックを受けた。

買いなおせばいいとか、そういう問題ではないのだ。

とはいえ、そんな感情は「物」についての執着でしかない。

妻の言う、「捨てるべきは何か」ということは、分かっているつもりだ。



元記事によると、Blog主は鬱で休職中の30代男性。
そのことも含め、妻がBlog主の生き方についてハッパをかけるという意味合いが強い。
コメント欄において、彼はこのように語っている。

上のエントリは、もちろん「人の思い出に思いが至らない妻」とかいう話ではなく、重すぎる仕事を馬鹿正直に受けてコントロールできずに鬱に至った自分の生き方に対する、妻からの警告の一つです。今回はたまたま矛先が昔好きだった本というだけで。鬱になってとても迷惑をかけたにもかかわらず、今のところはまだ見捨てずに尻を叩いてくれる大切な存在です。

本は捨てることにしました。前向きに生きるきっかけとして、生贄になってもらおうと思います。


本人が「妻の言うことが正しい」と判断し、「捨てることにした」と言っているのだから、もはや外野があれこれ言うべきことではないのだろう。それは分かっているのだが。

「男おいどん」に登場する「下宿屋のバーサン」が理想の女性の一人と考える人間として。
現在の「老害作家」となり果てる前の松本零士作品リスペクターとして。
一人の既婚女性として。
そして、かつてメンヘルで休職し、結局仕事はやめたけれども鬱からは脱却した(と自分では思っている)人間として。
どうしても渦巻く想いが色々ありすぎておさまらない。
文章として収めきれるかどうか、自信はないのだけれども、とりあえず書いてみることにする。


多分この奥さんに対しては、「男おいどん」が本当はどういう作品なのかを説いたり、誤読ポイントを指摘したところで意味をなさないだろう(と思う理由は後述)。
ただ、知名度の割には実際に手に取ったり、最後まで読んだことのある人は意外に少ないかもしれないので、かなり私のバイアスの入った文章で、その上冗長ではあるが紹介してみる。

[「男おいどん」とは]

1971〜1973年にかけて「週刊少年マガジン」に連載された。作者・松本零士にとっては初めての本格的な長期連載作品である。
現在入手しやすいのは講談社漫画文庫版(全6巻)。

主人公・大山昇太(おおやま・のぼった)は九州から上京してきた若者で、松本漫画に登場する「チビで短足でガニ股でド近眼でブサイク」キャラの代表格。出身県は明らかでないが、「おいどん」という一人称から、しばしば下宿のバーサンやバイト先のおっちゃんに「おいどん」と呼ばれる。
連載開始直後は工場に勤める傍ら、夜間高校(定時制)に通う苦学生だったが、工場をクビになり学費を払えなくなったために退学を余儀なくされる。
ボロの安下宿屋「下宿館」に住みながらアルバイトをし、再び学費を貯めて復学することを目標にし、学生服と学帽を「守り神」として大事に飾ってあるのだが、実際にはその日食べるにも事欠き、下宿代も何か月も貯め込んでしまう有様。
故郷には弟がおり、特に説明はないものの実家の暮らし向きも楽ではないようで(母親が入院する描写あり)、経済的に実家に頼ろうとする気配はない。むしろ弟には高校に行かせてやっているようで、それなりに兄貴の甲斐性はある?ようだ。
おいどんは決して無気力なニートや引きこもりではない。なりふり構わず様々なアルバイトに挑む(もっとも、空腹すぎて動けもしないシーンが多いのだけど)のだが、どうにも失敗や不運にばかり見舞われて、近所のラーメン屋以外のバイトは長続きせず、結局は下着までも売り払ったり、時には有名な「サルマタケ(押入れに押し込めた大量の洗ってないパンツに生えたキノコ)」を食べて飢えを凌ぐ毎日である。

下宿館にはさまざまな住人が入れ替わり立ち替わり登場する。そのほとんどは若者で、おいどんと同じような苦学生であったり勤め人であったりもするが、比較的経済的に恵まれた(少なくともおいどんよりは)大学生や浪人の登場頻度が高い。
1970年代初頭は「中流化」が本格的に進み、大学進学率(特に女子学生)も目覚ましく増え始めた時期である。学業よりもレジャーに余念のない大学生やスネかじりの浪人生住人(しばしば中卒・高卒の労働青年や夜学学生を見下す描写あり)の姿は、当時の世相を色濃く反映している。
おいどんの周りには、やたらと(松本零士お得意の)美女が登場し、彼に興味を持ったり接触の機会がある。見た目こそほぼ同じ(松本美女だから)だが境遇や性格は様々で、おいどんの純粋さやバイタリティに一定の敬意を示すキャラクターもいれば、見下すだけの安っぽい同情・優越感の確認だけのためにからかうだけの女もいる(そんでもって大抵は後者なのだが)。それなりにいい雰囲気になるかと思いきや、やっぱり不運な行き違いで誤解されて嫌われたり、ハナから相手にされていなかったり、別に好きな男がいたり、のっぴきならない事情で下宿館を去ったりで、結局は誰ともうまくいかず、大抵は美男美女の楽しげな様子を見せつけられるだけの展開が多い。(四畳半シリーズも、後年の青年誌連載の作品では、なぜだかけっこうヤるだけはヤれちゃう話が増えてくるのだが、そこはそれ「男おいどん」は少年誌掲載なもんでこうなる。だからこそ生臭くならずに名作たりえていると言える面もある。)

序盤に定時制高校を退学して後は、おいどんの身の上に展開と言えるような展開もなく、失敗と不運とサルマタケとインキンと、バーサンや住人たちとの日常話が続いていく。(ゆえに、全巻を一気に通読するのはけっこう辛いものもある)
終盤になり、住人達は下宿館のボロさを理由に次々と引っ越し、最後にはおいどん一人になってしまう。
最終回、おいどんは「出かけてきますんどー」とだけ言い残していつものように出かけて、その後部屋に戻ることはなかった。
押入れのパンツも、同居していたトリさんもそのまま、守り神(学帽と学生服)も残していったことから、「出かけただけで、きっとここに帰ってくる」とバーサンやラーメン屋のおっさんは信じる。
おいどんの帰りを信じるバーサンは、その四畳半を「おいどん以外には誰にも貸さない」として、いつ彼が帰ってきてもいいように部屋の電気を消すことはなかった…というシーンで物語は終わる。

この突然で、一見あっけないラストの解釈のしようはいくつかあるけれども、決して安易な逃避ではなく、バーサンが言うように「ちょっと長いこと部屋を空けたにすぎない」と松本零士は語る。

終わり方なんですけれどもこれは下宿を去ったわけじゃないんです。少し武者修行に出たんです。別の体験、例えば働きにいって、あの当時だから捕鯨船に乗ったとかで長期間、別のアルバイトをやったわけです。下宿という限定された範囲から外の世界に行き、そしていずれまた戻ってくる。「さよなら」とは書いていません。だからバーサンはわかってくれるわけです。「おいどんは帰ってくるぞ」と。いずれ何かになって。もしかしたら絶世の美女を連れて帰ってくるかもしれません。それもそう長い期間じゃない一年とか二年とかで。
あんな終わり方をしたのは可能性を残すためです。若い世代には、無限の可能性がありますから。人間、どんなに優秀で才能があって体力があっても気力をなくした人間は何もしない、これだけはこの世の真理だと思います。気力をもっている人間というのは、立ち向かうから何とかするんです。
(講談社漫画文庫版 6巻あとがきより)


おいどんは決して、やる気のない自己弁護だけのダメ人間ではない。
確かに空腹すぎて動けなかったり、時にはやさぐれてゴロゴロする日もあるけれども、他人から見下されれば歯をくいしばって悔しさに耐え(しばしば食いしばりすぎてミシミシと歯にヒビすら入ってしまう)、サルマタ布団の中で泣き、それでも「落伍者」などというレッテルを自分に貼って絶望するようなことはしない。
たとえ今は他人に比べて見劣りする境遇であろうとも、それは長い人生上の1点に過ぎず、おいおい「自分でどうにかする」という意志だけは捨てない。
「負けている」ように見えても、おいどんには「このままずっと負け続ける」つもりなどはまるでなく、「最終的には今のマイナスを取り返して余りある人生を勝ち取る」気が満々なのだ。

それでもどうにもならない時はある。
そんな時は「どうにかすべき時に動けるように」、食べられるものは何でも食べ、「明日のために今日も寝て、今日のために明日も寝る」。最低限食って寝ることさえクリアすれば生きられる、生きてさえいれば必ず何とかする。そういう「生きる意思の塊」。
それがおいどんなのだ。

松本零士の作品世界にあっては、さまざまなキャラクター同士がリンクしている(ということになっている)。
作者が公式に語ったもの、そうでないものさまざまあるが、そのうちでも有名なものの一つが、
「大山昇太(おいどん)の子孫が大山トチロー」
である。
言わずと知れた、「宇宙海賊キャプテンハーロック」や「ガンフロンティア」に登場する、ハーロックの永遠の親友にしてエメラルダスが心身を捧げた恋人、トチローその人だ(多少設定を変えて「999」にも登場している)。
ハーロックがいつも傍に置いて大切にしている「トリさん」もまた、「男おいどん」に登場し、しょっちゅう「非常食」「おまえ食っちまうど」と言われ続けながらも、ラストまでおいどんと生活を共にしていた。

先に挙げたようなおいどんの人生観は、松本零士が好んで用いるものの一つで、ブサイクなおいどんがこの上なくカッコ悪いシチュエーションで語ると、なんだか表面的には惨めなだけに見えてしまうかもしれないが、カッコいいキャラクターが語ると次のようなセリフになる。

「明日の勝利のため、今日の敗戦を認める。それが男だ。」
 (「宇宙戦艦ヤマト」より 沖田艦長)


「男にはな、何をやってもダメという時がある。いいか台場、そういう時男はな、黙ってただ寝てればいいんだ。」

 (「宇宙海賊キャプテンハーロック」より ハーロック)


見た目や響きのカッコよさは一見かなり違うように見えて、言っている内容自体はまるっきり一緒なのだ。おいどんの場合は見た目が悪くて、状況や設定がちょっとばかりリアルだという、それだけの違いにすぎない。

おいどんはカッコ悪い。ほんのちょっとプライドが邪魔をしなければうまく行っていたはずの失敗も沢山ある。泣き言も言うし、実際よく泣く。
けれども、自分のための言い訳は絶対にしない。
「こんなのは本当の俺じゃない」というような逃避もしない。
バイタリティに満ち溢れた「男」の物語なのである。



この一見は「配偶者や恋人の大事にしているものの価値を自分が認められないからという理由で廃棄を迫る」という点で、一部で有名な「鉄道模型を捨てられた夫」の話に似ている。
しかしこの場合は、廃棄を迫る動機が単なる「片付かない」「住居スペース占領の解決」ではなく、「夫婦間の生き方・考え方の問題」が第一義となっているので根本的な事情がかなり違っていて、同一に考えることは難しいように思える。

しかしながら
ちなみに、去年の夏に引越しをする際、妻の「本が多すぎる」というクレームにより、大量の蔵書の半分を売ってしまったこと、

「これは残しておきたい」と思った本も、妻が気に入らなければ処分したこと、

「松本零士はつまらない」という理由で、これまで集めてきた沢山の松本零士作品を全て処分するよう言われ、四畳半シリーズは「男おいどん」を残して全て処分したこと、そういうことが前提にある

という一節を見るに、「自分の価値判断だけを絶対視し、相手の意向を無視する」傾向として同様の素質を持ち合わせている(女性の性向としてクローズアップされることが多いが、実際には決して性別を問わない)という点では共通している。

むしろ、単純に「邪魔」「かさばる」という理由でなく、「気に入らない」「つまらないから」という価値判断基準が介在している分だけ根のヤバさは上のように感じられる。


そもそも、「とある本(でもマンガでも映画でも、フィクション全般)を座右の一作とする」ことと、「主人公と同じようになりたい、同じ生き方をしたい」と願うことは必ずしもイコールではない。
いやもう…本来説明するのもバカバカしいくらい当たり前のことなのだけども…
勿論「主人公への憧れ」と同一の場合もあるけれども、「座右の一作」となりうる理由は、

・主人公や登場人物の言動、あるいはナレーションなどから多くのことを考えさせられ、感じさせられ、自分の認識が深まる契機となった
・読み返すたびに新たな発見がある

というようなところに集約されるだろう。

ちょっと例として適正ではないとは思うのだが、他に思いつかなかったのでコレで例をあげると…

私の愛読書の一つにジョージ秋山の「デロリンマン」があるのだけど、これを読むときには別に

「私もデロリンマンみたいになりたい!」

とは思っているわけじゃないのであって。
けれどもあのマンガを読むたびに「正義とは?」「力とは?」「愛ってなんだ?」というようなことを考えずにはいられない。
自分の中の名作とはえてしてそういうものじゃないだろうか。
それを短絡的に
「ダメ人間を主人公にしたマンガを読んでるとあんたもダメ人間になる」
「あんたが弱いのはこんなマンガを読んでいるからだ」
という類の言葉でくくってしまうのは、端的に言って真の意味で教養のない人間
の最たるものだと思う。

この手合いには、
「自分は『おいどんになりたい』んじゃなくて、こういう理由で『男おいどん』を愛読してきたんだ」
とか
「君が実際に読んでみて『この作品が僕をダメにした』と感じたのであれば、具体的にどういう点についてそう考えたのか話してみてくれ」
というようなマトモな話し合いはまず通じない。立脚点があまりに違いすぎてかみ合わないのだ。

あくまでブログの文章の範囲でしかないのだが、作品の読み方があまりに表面的(最初から「この作家嫌いバイアス」がかかっているせいもあるだろうが)な上に、「負け組」という、自分の言葉ではなく既成の、それもかなり陳腐なフレーズのみで作品価値を否定する姿勢はいかにも意思表現が貧困であり、また廃棄を強要するだけでなく、「捨てない場合は私が家を出て行く」という脅迫を(相手の精神状態と自分がどれだけ相手にとって重要な存在かを十分分かった上で)行うのは卑怯極まりないと思う。
それがもし一種の「試し」ならばなおさら、そんな行為は人としてすべきではない。

無責任な言い方になるが、「捨てないなら家を出る」と言うなら、一度その通りにさせてみればいい。
まともな親なら
「メンタルヘルス面で苦しみ療養中の夫に『こんな本をバイブルとか言ってるからあなたはダメなの。捨てなさい。』と、別居までもちらつかせて迫ったが通用しなかったので、夫を放り出して腹にすえかねて実家に帰ってきた娘」
への対処法は一つしかないと思うけれどねえ。
ただ、気持が弱っている人間にはまず非現実的な話ではある。


元のBlogがはてなダイアリーということもあって、はてなブックマークでもこのエントリーは話題になっている。
私と同様に「文章から判断する限りでは妻側の非が大きい」と判断する人もいれば、妻側に寄った解釈をする人もいて様々だ。こういう言い方はアレかもしれないが、「鉄道模型」とは状況が違うだけに色々差異が生じていて興味深い。

妻寄りの意見としては、

・奥さん自身も悩んで精神的に煮詰まっていて、その不安や不満の矛先ががたまたま「おいどん」を介して発動したのでは

という内容のものがある。
「男おいどん」という作品にとってみればまことに不憫なトバッチリだが、こういう側面も確かにあるだろう。
実際、Blog主自身も

妻の言う、「捨てるべきは何か」ということは、分かっているつもりだ。


と本文で書いており、妻に対する信頼が固いようなので、決意どおりに「男おいどん」を捨てても、おそらく「鉄道模型夫」のような虚脱状態にはならずにはすむことだろう。

しかしこうした態度は、うつの患者と暮らし、精神的に支えようとする人間のソレとしてはいささか疑問と危険を感じざるを得ない。

うつで加療中の人間に対し

「よかれと思う気持ちからであっても、ハッパをかけたり尻をたたいたり、『がんばれ』という言葉をたたみかけること」
「過去の生き方や現状を否定し、責めること」
「早く復職・復学しろ、回復しろと促すこと」
「離職・転職・離婚・転居などの重大な決定を迫ること」


は、「べからず集」の筆頭である。
多分奥さん自身も主治医などから聞かされてよく分かっていて、普段は言いたくなることをグッと呑み込んでいるのかもしれない(あくまで想像だが)。だからよけいにストレスがたまるということもあるだろう。私もかつては相方にそんなストレスをかけていたのだろうと思う。
だけどもやっぱり、その時点だけを切り取ってみると逆効果でしかない行為なのだ。

人生に「バイブルの一作」がある人には分かると思うが、そういう作品には初めて出会った時の感動だけでなく、その時の記憶や思い出が一体化しており、ことに本のように形のあるものであれば、買った時のいきさつや版の種類、経年でしみついた汚れや日焼けに至るまでも愛おしく、捨てがたいものだ。
たとえその価値を自分が理解できないとしても、「人の大事なもの」を否定し、捨てるのは、その人を形成した「その人の一部」を否定し廃棄することだと私は思う。
心の事情で休職している時、いくら医師や周囲の人が理解を示して「今は休め」と言ってくれてもやっぱりいろいろ考える。復帰できるのかという不安、休みの間に迷惑をかけている人へはすまないと思うし、重圧もある。まして所帯持ちの男性となれば尚更のことだろう。
夫婦の間でしか分からない歴史や呼吸の問題もあるから、一概に言い悪いとは決めつけられない。しかしこういう仕打ちは決して「良くはない」。
周囲の人間のベストの対応は、全否定でも無条件の全肯定…でも悪くはないけれどかえってそれを重圧に受け取る人間もいるのでケースバイケースだけどやっぱりそうじゃなく、「肯定気味の保留」じゃないだろうか。自分はそんな感じでいてもらえるのが一番ありがたかった。
「辞職や離婚など、人生の大事を決めないこと」というのは、「判断力が鈍っているから」というよりも、純粋に「その余力がない状態だから」という方が大きい。
愛読書を捨てるということは、仕事や家庭における決定に比べれば瑣末な決断かもしれないが、それでも今決めない方がいいのではないだろうか。差しあたって肌身離さずに置きたいのでなければ、友人宅などに避難させる(「○○が読みたいと言っていたから貸した、あるいはあげた」と言えば奥さんもそれ以上言わないんじゃないかと思うが)などの手段がベターかと。電子書籍としてハードディスク内に所有するという手もある。

うつ状態の人に対して「男おいどん」が有害になりうるとすれば、おいどんの境遇と自分の現状を引き比べて

「生活や経済状況はおいどんよりずっと恵まれてる自分だが、気力的にはずっとずっと彼以下だ」
「自分はおいどんのような前向きな気持ちを持つことはできない」

というような卑下や自己嫌悪に陥る可能性
が否定できない…というくらいのことしか考え付かないんだがなあ。


こういう話を聞くたびに思う。
家の中を管理し、夫の生活をサポートするのが妻の一般的な役割(もちろん話し合ってその辺の労力を分担したり自己管理するのはそれぞれの夫婦の裁量なので、「一般的」と書いた)とされているが、時々管理の度合いが行き過ぎて、完全に「オカン」と化す女性の話にしばしば出会う。夫婦だけでなく、長く交際して深い付き合いになっているカップルでも見る話だ。
ここでいう「オカン」とは、「管理」や「干渉」の域を越え、相手に対する「支配」「君臨」の域に達してしまっている状態を意味していると思ってもらいたい。
例えばプライバシー(携帯電話の通話・メール履歴やPCの中身)や個人の裁量の中での消費活動やモノの管理にまで自分の意向・考え方を反映させないと気が済まないタイプ。
もっと具体例を出せば、「相手のメールボックスをチェックして何が悪い」と開き直るタイプがこれの最たるものである。
モノの管理にしても、捨てる捨てないを話し合って決めるのではなく、「自分から見てゴミでしかないからダマテンで捨てました」「だってあの人に任せてたら絶対に捨てないもの」というタイプもそうだろう。
(もちろんこれも女性だけとは限らず、やたらと相手を束縛したがる男性なんかも同じ手合いである。「亭主関白」のカテゴリの中にこの行為が含まれることもしばしばある。)
相手が「俺のママになってくれ」と意思表示して結ばれたのなら傍から口出しするこっちゃないのだが、たいていはママパパがもう一人欲しいとか、相手に君臨して欲しくて結婚するもんじゃないはずなんだけどなあ。
「暮らしてみるまでこんなコドモだとは思わなかったもん、私がしっかりするしかないじゃない」
オカン化してしまった人は大抵そう言うのだが、それだって半分以上は本人の洞察の甘さに由来しているんじゃないかと思う。
「だから諦めれば?」とは言わないし、状況によって根気強く「教育」していく必要はあるだろうけども、「教育」は「支配」「君臨」とは違う。少なくとも「効果的な教育」は。
同居別居・死別離別の状況は様々だが、すでに相手の親は存在しているのだから、「大の男にオカンは二人いらないだろ」と思うのだ。それは私が義両親と同居しているから特に強く感じるのかもしれないけれど。

私は安易に「ならば妻を切るべき」というような結論じみたことは言わないし、(単にBlogの1エントリを読んだに過ぎないので)とても言えないのだが、Blog主の夫婦関係において、かなり一方的な支配関係が形成されつつあることを強く感じる。
そして彼に、「その"支配"の介在が、自分の考える夫婦のあり方と相容れるものなのか」について一度考えてみた方がいいのではないか、とは提案したい。たとえ現在休職・療養中であることに何らかの負い目を感じているとしても、夫婦のビジョンを語るにあたっては妻も夫も対等でなければならないという一点だけは忘れないでほしい。
その上でご自分が決断したのであればもはや第三者が口をさしはさむことではないし、大山昇太もまたいつも自分自身で決断してきた。


あまり夫婦論を語りすぎると脇道に逸れて戻ってこれなくなるので打ち切るとして。

自分にとっての「モノ」の価値は、それ自身の市場価値だけではなく、それにまつわる思い入れや思い出、体験や年月をすべて含んで醸し出されるものである。
介在する体験や人との関わり如何で、それまで何とも思わなかったものが輝きを増したり、逆にイヤな思い出のせいで大好きだったものがある日を境に「二度と見たくない」ものになり下がったりもする。
Blog主の身心はいつか癒され、手放したとしても再び「男おいどん」を手にする日が来るだろう。そうあってほしいと心から思う。
けれども再び読む「男おいどん」の味は、今回の妻君とのいきさつによってどうしても重く苦いものになっているだろう。そうでなかったにせよ、以前愛おしさをもって読んだあの気持ちを再び取り戻すことは難しいのではないだろうか。
「人と書物の蜜月」がこのような形で損なわれた、その一点だけを見ても、「辛い話だ」と思わずにはいられないのだ。



以下は本題に関係のない自分語り。
冒頭にも書いたが、「男おいどん」を読んでいちばん感銘を受け、「こういう人になりたい」と思わせてくれたのは、「下宿館」のバーサンだ。
松本零士の作品によく出てくる、あの貧相な、ヒョウタンみたいな顔の冴えない老女である。
まったく同じ風貌のバーサンがアルカディア号内で飯炊きをしてるんだけど、あれもまた下宿館のバーサンの子孫だったりするのだろうか。

バーサンは連れ合いのジーサンに先立たれて下宿館を切り盛りする家主である。年のころは60〜70代と見られ、結構な年齢ではあるものの、自分で屋根に上がって雨漏りの修繕をするなど、基本的には元気。
おいどんの部屋の不潔さと家賃滞納にはほとほと困っており、しょっちゅうホウキ片手にバトルを繰り広げるのだが、彼が貧乏なのは遊ぶ金のためではないという事情、できれば学校に戻りたいという志、不器用だが絶対不屈なおいどんのいい所を誰よりも理解しているのもまたこのバーサン。サルマタケにさえも事欠くときにはご飯を分けてくれたり、女の子が訪ねてきていい感じな時には気を利かせてやったり(その全ては徒労に終わるのだが)と、家賃の督促は厳しいけれど、優しいところもちゃんとある。

私が一番好きなバーサンの美点は、ハッパもかけるけれどもギリギリのところで「おいどんの男の尊厳」はちゃんと尊重していて、それを踏みにじるようなことはせず、人前でおいどんに恥をかかせることも絶対にしない。そのさじ加減である。

講談社文庫版1巻所収「大山兄弟死闘の海岸」は、そのバーサンの良さが余すところなく登場するエピソードだ。

この数話前の話で、九州からおいどんの弟・太が兄を頼って東京に出てくる。
ペンフレンドに会うためで、まさか兄であるおいどんがこんな困窮した日々を暮らしているとは思ってもいないので、あれこれと画策して兄の沽券を保ったり結局保てなかったりの騒動があった。
太はペンフレンドの女性を含むグループと優雅に海へキャンプへ出かけてしまい、ぽつねんと取り残されるおいどん。
最近下宿館に越してきた新しい住人・美人美大生の西野さんは、例によっておいどんに何かと構ってくれる。
「大学の仲間と海に行くので、費用はすべて持つので、荷物持ち件ボディガードで同行してほしい」
と頼まれ、実は別のイケメンを誘う口実の当て馬と知りつつも参加することにしたおいどん。
しかしバーサンは
海へつれてってもらって あんた
大事なものをなくさないでよ 大事なものを
(略)
あんたが日ごろいってるプライドのほうさ(注:童貞じゃなく)

と危惧し、「おもしろくなかったら すぐかえっといでよ」と出がけに忠告する。

予想通り、ただの人足としてこき使われ、「浪人にもなれない貧乏人」「連れてきてやっただけでも感謝してもらわなきゃ」と聞こえるように蔑まれつつも、おいどんは西野さんの顔をつぶさないように甲斐甲斐しく働く。
そこでおいどんが見たのは、楽しく青春を謳歌しているはずが、自分と同じようにキャンプの下働き扱いされて悔し涙を流す弟の姿だった。
さすがに嫌気がさして皆のいないうちに下宿へ帰ろうと考えるおいどん。さりとて悲しいかな帰りの電車賃もない。
その時、ズボンの後ろポケットに、あるはずのない千円札を発見して驚く。

実は下宿館の玄関を出る時、ズボンのポケットの内布を直すふりをして、こっそりバーサンが忍ばせていてくれたのだ。

それは
「いざという時は恥をかかされる前にこの金で帰って来い」
というバーサンの心遣いだった。

おいどんはその「意外な大バーサン」の気持ちに感謝し、

よし いつでもかえれるとなりゃ 話はべつだ
おいどんはとことんゆとりをもって 最後までみなさんとおつきあいするであろう


と気持ちをゆったりと構え、無事全日程を終了。バーサンからもらったお金をすべてお土産に換えて持ち帰り、何事もなかったかのように明るく帰宅するのだった。

見ててごらん 大山さん
きっと あんた なんとかなるよ
大物になるよ
あたしにゃわかるさ うん

と、バーサンもまたおいどんに余計なことを聞くでも言うでもなく土産を受け取り、一人切なく涙するのだった。
こういう「男の立て方」はいかにも「昭和の女」という感じで、作中に登場するどの美人さんよりもバーサンはいい女なのだ。異論は認めん。

まあこの話はおいどんもバーサンも切ないシーンで終わるのだが、次の話でも夏設定は続いていて、「日焼けで剥けた背中の皮をどうにか食えないものか」と真剣に考えるおいどんの姿でいつものように始まって、そこがこの物語のいいところだったりもするのだけど。

別にバーサンになるのを待たなくてもいいわけだけど、「こういうバーサンに、私はなっていたい」と思うのだ。読むたびに。
posted by 大道寺零(管理人) at 17:39 | Comment(13) | TrackBack(0) | 漫画
この記事へのコメント
あああああ・・・。
前にも先生に言った気がするですが、おいどんのバーサンは私も大好きです。
もう、どんなミステリアスで、夏でも黒い服な松本美女より、いい女ですっー!
涙ながらに同感であります!!(泣(←出た))
Posted by きたかZ at 2008年01月13日 20:30
>>きたかさん

この記事を書くために文庫版6巻を読みなおしていて、バーサンの本名が「山田マス」だったことを思い出しました(アルカディア号の飯炊きバーサンもマスさんでしたね)。でもやっぱり最大のリスペクトをこめて「バーサン」とお呼びしたい私がここにいるのであります。
時々手酌酒においどんを付き合わせて、天国のジーサンを偲び涙を流すシーンはけっこうホロリと来てしまいます。
Posted by 大道寺零 at 2008年01月14日 00:51
 「男おいどん」をリアルタイムで読み、単行本も買い、異性に縁の無い青春前期を過ごし、その後実際浪人もし、ハーロック大好きで、現在精神科医をやってるネコトシでございます。食べ物に不自由したことは無いのですが・・・
 大道寺さんのおっしゃりたいことは、私の気持ちと同じです。私は「男おいどん」や「大四畳半物語」を愛しています。でも、一方で、この「妻」さんの心情を思うと、痛みと苦しみも迫ってくるのです。早く治ってほしくて、歯痒くて、そこへ「男おいどん」は刺激が強すぎたのではないかと。
 松本零爺の、「ヤマト」以前の最高傑作であり、短編「銀河鉄道の夜」などと共に、思春期の私の心に沁みた一作を捨てた女子は許せませんが、医者の立場で、ご家族の話を聞いているもう一人の私は、怒り以外の辛い気持ちも抱いております。
 このご夫婦にも「バーサン」的存在がいてくれます様に。

 「最終回」といえば、選抜?された人たちは宇宙船に乗って地球脱出。大山は「選ばれず」残留させられ、それを彼に教えようとした女性は処刑されてしまう。事実を知ったが、見捨てられた地球にいるしかない大山、「自分みたいに、選ばれなかった女がいるに違いない。見つけ出し、繁殖してやる」と歩みだす、という物凄いエピソードがあったような記憶が。この回ばかりは、バーサンもどうにも出来ず、宇宙服で泣いていましたね。あれは、番外編か何かだったのでしょうか。
Posted by ネコトシ at 2008年01月14日 19:18
>>ネコトシさん

日頃、患者さんだけでなく家族の方とも話されるのがお仕事のネコトシさんのコメントは重みがあり、とても参考になります。ありがとうございます。

記事を書いてから思ったのですが、一口に「バイブル」と言っても、常にデスクや枕元に置いてしょっちゅう読み直すものと、大事に保管して時折思い出したように読み返すものの2種類ありますよね。
もし加療中に毎日おいどんを読んでいる場合、多少の危機感が周囲の人間に生まれたとしてもそれなりに納得できるんですが、後者の場合に責めるのはあまりに酷かと思うんですよ。
実際、自分の加療中のことを思い返すと、すでに「おいどん」の文庫版を所有していましたが、おいどんの雑草のような強さがまぶしく、また日頃の周囲からの仕打ちが心に痛くてとても読めませんでした。一言でいえば「あまりにも重い」ということでしょうかね。

今ちょっと考えているのは、
「この状況がblogの文字通りで、しかもそれが日常的な状況」だとしたら、このご夫婦は妻→夫のモラルハラスメントにある可能性が大きいのでは?ということなのです。

夫は「妻の言うことは正論」「妻の方が正しい」と何度も書いていますが、これはモラルハラスメント被害者が典型的に陥る自責状態で、支配の結果と言える心理状況です。
また、そういう状態の人間に対し、第三者が
「奥さんがそうするだけの理由があるんだろう」「あんたに問題があるからそんな風にされるんだ」「そうなるまでの二者関係を築けなかったあんたが悪い」
と意見することは(モラハラが実在した場合は)大きな二次被害となる、これも典型パターンです。
また、「ハラスメント」と言いつつも、それを加える側は「嫌がらせ」「虐待」という自覚がないのもモラハラの最たる特徴で、本人は「あなたのため」「こう変わった方がいいと思うから」という、教育や啓蒙だと本気で思っています。
これはあくまで私の想像にすぎず、「奥さんの側にもそこに至る事情があったのでは」という考えと同様に勝手な推測でしかないのですけれども…
これはネコトシさんへの意見というより、はてなブックマークやトラックバック先の記事などを読み、「万に一つモラハラ的状況に陥っていた場合には、夫の責任を指摘する旨の意見はかなり危険なものとなりうるのではないか?」と思ったのです。
また、「男おいどん」の内容について実際に読んだわけではなく、嫁さんの評や表面的な紹介文だけにのっとって作品との関連を述べている文もあって、そういうものについては非常に危険というか的外れな感想を抱くものもありました。
なんだかまとまらずにすみません。

ともあれ、このご夫婦はこの一件について、お二人で主治医やカウンセラーのもとに行って相談やカウンセリングを受けるのが最善のように思えます。その場合、主治医が「男おいどん」の内容を理解しているのがベストですが、忙しいお医者さんに「これ読んでおいてください」と「おいどん」全6巻を手渡すのもなんとも酷ですしね…

>選抜?された人たちは宇宙船に乗って地球脱出。大山は「選ばれず」残留させられ、それを彼に教えようとした女性は処刑されてしまう。事実を知ったが、見捨てられた地球にいるしかない大山、「自分みたいに、選ばれなかった女がいるに違いない。見つけ出し、繁殖してやる」と歩みだす、という物凄いエピソードがあったような記憶が。

「はるかなる第2前世紀 おいどんの地球」ですね。
文庫本では最終巻・「男おいどん」本編最終回のすぐ後に収録されています。
初出は「週刊少年マガジン」1972年21号で、本編連載終了が1973年ですので、連載期間中に差し挟まれた番外編といったところでしょうか。
設定は、本編より「3代目くらいあと」の地球を舞台にしていますね。最後含めてなかなか切なく、しかしおいどんの雑草的な強さが印象的ないい短編ですよね。しかしこの話、老い先短いであろうバーサンも選抜には合格してるんですよね…基準がよくわからん…
「選抜に漏れ(しかも容姿的な要素も多分に含む)落ちこぼれとされた人間がが逞しく生きのびる」というモチーフは、形を色々と変えて松本作品で扱われていますね。
Posted by 大道寺零 at 2008年01月14日 21:26
 大道寺さんのご意見が、私には大いに参考になりました。「妻=目上、夫=目下」となっている状態も確かにうかがえますね。これは、家庭内モラハラと言え、確かに「治療的にも」支障があり、私も、もし主治医なら「妻を叱る」と思います。・・・私には、経済的にも疲れた妻が、将来の生活の不安を抱え、自分も「病んだ」状態になり、何かがプツンと切れて「男おいどん」に八つ当たりした心情が「想像」されたのでした。

 親だの、配偶者だのが、患者さんの大切にしているものを「ダメ」と捨てたりしたら、主治医の私はホンキで怒ります。自己卑下させてどーする!!・・・でも、患者さんに「上からモノを言ってる」らしいご家族が、眉間の皺深く、化粧気のないやつれた頬、髪もぼさぼさ、しおれた声で「私だって、良くなってほしいんです」と本人不在の面談中につぶやく姿を何度も目の当たりにしてきました・・・

 「おいどんの地球」は、連載途中に掲載されたんですね。そこで、私の記憶が混乱したものと思われます。

 最終回近く、バーサンが下宿の屋根を自分で歯を食いしばって修繕している姿が好きでして。

 大山は、「うつ常態」ではありませんね。プライドとコンプレックスがサルマタを穿いているような若者ですが、気力は失っていないのです。本当に落ち込んでいる時に読むと、かえって圧倒されるかも。私自身、「底」だった時、大好きなヘヴィメタルが聴けなかった時がありました。絶望とか、虐げられていることが歌詞に取り上げられていることが案外多いヘヴィメタルですが、少〜しは「余裕」があるときでないと聴けないものだと知りました。今から十数年前かな。
 長々、すみません、余計なことを申し上げた気もします・・・
Posted by ネコトシ at 2008年01月14日 23:01
私はうまく言えないけれど奥さんも弁護したいです。
おいどんは小学生時に読んでいまして、あの「底なしの日常とそれを支えるオトナの強靱な楽観(?諦観?)主義」が子供心にすごく怖かった(ジャリチエとかもそんな感じかなと想像)。
やさしい(?あきらめ?)ほうが強いので、プライドはあるけど怒らない。よくある青年像みたいに人をむやみに殴りつけたり、プライドを切腹で顕わしたりもしない。ある面では平成的な、巻き込まれ型の青年像(実際に汗水垂らし働くのが楽しいとかいうシーンはない気がします)。
結構松本さんも漫画家として一応安定した立場から若いハズのおいどんを回顧して書いて書けた作品に見えるのですよね。
30歳の家庭持ち鬱青年がバイブルにするには、人生を降りすぎてる気がします(松本作品のノスタルジーや世界観などの良さはありますが、鬱発症時も読み返すとしたら鬱には危ない2ちゃんねるのVIP板に入り浸るようなものでは。)。
ただ、奥さんも危機感を覚えたからといってすぐ叱るのではなく「これは初版本だからヤフオクですごい値がつくわ!あなた、売りましょうよ!このお金でまだしばらく休めるわ」だったらよかったのに?それもできず叱ってはいけない鬱の人を叱るほどに奥さんも余裕がなく、半分鬱状態(連れ鬱も最近多いみたい)だったら?
落ち込んでいるご本人のブログにはとても書けませんが、もうこれはやはりしっかりと通院して薬を飲むなり(あまりよく効いてない気も)して、回復してから奥さんと経済ふくめしっかり話し合うしかないんじゃないかなと思いました。
Posted by NAPORIN at 2008年01月14日 23:21
>>ネコトシさん

メンタル医療に限らず、どうしても療養・入院中はその本人が配偶者に対して「いつもすまないねぇ」状態になり、相手の出方によってはそこで権力の傾斜が生じてしまうように思うのです。(なかなか理解を得難い精神疾患の場合は特に)奥さん自身、自分が必要とされている(今の夫が自分に逆らえない)ことを分かって別離をほのめかすなど、最初家庭内パワーハラスメントなのではないかと思ったんですが、調べていくと被害者状態がモラルハラスメントのそれにあまりにも合致しているのでそっちかな?と思ったのでした。
まあいずれにしても両者の歴史や生のコメントを聞かなければ判断できないところではありますが。

>・・・でも、患者さんに「上からモノを言ってる」らしいご家族が、眉間の皺深く、化粧気のないやつれた頬、髪もぼさぼさ、しおれた声で「私だって、良くなってほしいんです」と本人不在の面談中につぶやく姿を何度も目の当たりにしてきました・・・

そうですね、「この人は必ず克服できる」と信じるからこそ尻を強くたたいてしまうというのは実際あるのだと思います。実家の両親もついに最後までうつ患者への取扱いについては、理屈では分かっていても納得するわけにはいかない、という感じだったようで、わかってくれず随分とハッパをかけられ、辛かったです…私に対しての「この程度のことで潰れる人間じゃない(そうあってほしくない)」という親心だったことは今では理解できますが、当時の住居が実家に近かっただけに重荷でした。
そうしてみると、相方がいかに私に寛容を貫いていてくれたか、当時からありがたいとは思っていましたけれども、あれから時が経つにつれ、リスペクトと感謝は深まるばかりなのです。

本人は長い目でどっしり構えようと思っていても、周囲(特に義両親や実家など)から「旦那をしっかりさせるのは妻の役目(責任)」というように言われていたりするとなんだか板挟みになったり、そんなこともあったのかもしれませんね。

>最終回近く、バーサンが下宿の屋根を自分で歯を食いしばって修繕している姿が好きでして。

あそこは何とも切ないですよねー。
バーサンが「年老いた自分にはもう時間が残されていない、だからこの下宿館を守って生きていくしかない」と言いつつ、おいどんに「でも、あんたにはまだ時間と可能性がある」と身を持って伝え、おいどんもそれをちゃんと受け止めるんですよね。
この2話後に最終回になって、おいどんは「行ってきますんどー」とだけ言い残してどこへともなく去るんですが、その行動のフラグになった大事な回だと思っています。最終回だけ見るといかにも唐突な「おいどんの旅立ち」ですが、ちゃんと前後の話を読むと動機は色々示されてるんだと。
雨漏りを直す回のバーサンは、下宿人が次々に去ることになって、自分がいちばんさびしいにもかかわらず、「おいどんが寂しがるから、彼には内緒で引っ越ししてくれ」と頼むんですよね。そのあたりもいかにも「ああ、バーサンらしいなあ」と感じました。

>本当に落ち込んでいる時に読むと、かえって圧倒されるかも。

これは本当にありました…おいどんもそうですけど、歌もそうですね。以前カッコイイと思った歌詞がそらぞらしく聞こえたり、背中を押してもらった曲にもなんだか拒まれているように聞こえたり。以前は何とも思わなかった歌詞が妙に沁み込んだり。自分はかえって「慰め・癒し」な詞が聞けませんでした。そのポイントは人それぞれだと思いますが…
Posted by 大道寺零 at 2008年01月15日 15:17
>>NAPORINさん

私はこの記事を書いた時、もしNAPORINさんがコメントを下さるとしたら多分奥さんよりの意見なんだろうなあと漠然と思ってました。これといった明確な理由はないんですけどね…

>おいどんは小学生時に読んでいまして、あの「底なしの日常とそれを支えるオトナの強靱な楽観(?諦観?)主義」が子供心にすごく怖かった

「男おいどん」はとても単純な構成の作品ですが、それゆえにさまざまな感情や解釈を読者に与えていると思います。で、松本零士の作品で、これほどまでに「読む側の年代や経験で見え方が違う作品」もないんじゃないかなと。
小学校くらいの時期、中高の思春期、おいどんの年齢とかち合う大学〜就職期、30代くらい、または家庭を築いた時期、子持ちと子無し、中壮年期…それぞれに心に浮かぶ感情が違ってくるんですよね。
で、小中くらいの時期であれば、おいどんにもいいところはあると読み取りながらも、「それでもああいう将来はヤだなあ」と感じるのはある意味正常で、もし「ハタチくらいになったらおいどんみたいな生活をしていたい」とか自分の子供が言い出したらやっぱり全力で矯正するんじゃないかとは思います。
30代の現在の自分にとっての「おいどん」は本文に書いたとおりの評価ですが、これが40代50代になったらまた別の見え方が出てくるはずで、バーサンになってから読み返すのを楽しみに保管しているのです。自分にとっての「バイブル」の使い方の一つはそういうものなんですな。

>(ジャリチエとかもそんな感じかなと想像)。

全巻揃えている(相方が)我が方としては、反論すると1000字やそこらじゃすみそうにないので差し控えますが、「違うよ、全然違うよ(マーク・パンサー風)」とだけ全力で言っておきます。確認なさりたい場合は…さすがに全67巻ある単行本を読めとまでは申しませんが、作画・演出・キャスティングともに異様に神がかったTVシリーズ第1期のアニメはたまにレンタル屋に置いてありますのでお勧めでございます奥様。

えらく長文になってしまったので続きます;
Posted by 大道寺零 at 2008年01月15日 15:20
>>NAPORINさん

ごめんね奥さん、やたら長くなってしまって…正直自分でも、「男おいどん」について語ることがこんなにあるとは思わなかったんよ…

>ある面では平成的な、巻き込まれ型の青年像(実際に汗水垂らし働くのが楽しいとかいうシーンはない気がします)。

うーん、確かに「巻き込まれ型で受け身」なのは、後続の「大四畳半シリーズ」作品ではその傾向が強まっていますが、「おいどん」については賛同しかねます。
おいどんの労働はあくまで生活と復学のための資金稼ぎであって、今のところ「これになりたい」という目標は明確に示されていない(むしろそれは復学して手に入れたいと思っている)ので、「労働の楽しさ」が描かれていないのは当然ですし、またあまり一般に漫画(特に当時の)に期待されるものでもないんじゃないかと。

>結構松本さんも漫画家として一応安定した立場から若いハズのおいどんを回顧して書いて書けた作品に見えるのですよね。

松本零士は1938年生まれで、「男おいどん」連載開始時(1971年)には33歳なのでそれなりのステータスのように思えますが、リリカルテイストやSFマインドを一部で評価されつつも、連載は打ち切りが多くてなかなか続かず、ブレイク以前の時期でした。
「男おいどん」も当初は10週限定の連載のはずが、反応が良くて初の長期連載になったものです。年代としては確かに「まとまった回顧」となっていますが、おいどんのエピソードの多くが実体験(守り神の学生服やインキンやサルマタケを実際に生やした(そしてちばてつやに食わせた)ことなど)であり、気持的には「あの頃のオレ」というよりは、未だリアルタイムに持ち続けていたエモーションを、「悩みを共有する同志たちと同じ次元で全てを包み隠さず描く」という確固たる目的を持って描いたそうです。
この作品が氏に開眼させたものは大きく、あとがきでは、
「それまでは自分の現況について『マンガを描いています』としか言えなかったが、おいどん以降は胸を張って『マンガ家です』と言えるようになった」
と語っています。

>30歳の家庭持ち鬱青年がバイブルにするには、人生を降りすぎてる気がします

先ほど書いたように多様な読み方を許容する作品ですから、私はそうは思いません。
「バイブルにする」と一口にいっても、毎日読むのとそうでない場合がありますし。
ただ、うつ持ちがこの作品を通して読めるようになったならば、それは間違いなく快方に向かっているように思うんですよね。

>叱ってはいけない鬱の人を叱るほどに奥さんも余裕がなく、半分鬱状態(連れ鬱も最近多いみたい)だったら?

その精神状態は「要カウンセリング」であっても、「連れ鬱」ではないと思います。他者の人生観や生き方についてそこまでパワフルに矯正を行おうとするパワーは、うつ状態では生まれえないものだからです。

どうすればいいんだろう?となれば答えは簡単で、奥さん自身悩み多い状況なんだから、フィクション一つのこと、別に賛同や称賛を強制されてるわけじゃなし、(「男おいどん」のことは)ことはただ単純に放っておけばいいんですよ。
体の病気や怪我と違って、心のソレはなぜか周囲の人間はやたらと、必要以上に「悪者探し」をやりたがる。時には妻自身がその「悪者」じゃないの?と言ったりほのめかす人間がいたり、あるいは自分でそこに思い当って必死に否定したいがために、愛読書を探して「合理化」しているのかもしれませんけどもね。

旦那さんは通院や服薬はちゃんとしてるんじゃないですかね。うつ治療はフェイズや状態によって使われる薬は違ってきますが、基本的には不安を取り除く作用の薬が用いられずはずで、文章を見る限り、安定状況を乱しているのは妻のように見えて仕方がないんですよね。まあきっと、毎日こうじゃないとは思うんですけども。
いずれにしろ、さっき書いたように、奥さんも「カウンセリングが必要」な状況に陥っているんじゃないかとは感じます。さりとて今の状況の夫からは、
「お前も一度見てもらえよ」
なんてセリフはとても言えそうにないわけですけどもね…

Blog主の奥さんって、Blogの存在を知ってるんだろうか?とか、時々目を通してたりするんだろうか?と、ふと気になりました。
でも、読まれてるとしたらとてもこんな文章は書けないよなぁ…
Posted by 大道寺零 at 2008年01月15日 15:21
私は勝手に捨てる気持ちは全くわかりませんね。
そんな取り返しのつかないことをしてしまうなんて恐くてできません。
私なら捨てさせる(のを本人に決断させる)べきだと思ったら
捨てるよ、いいね、と言ってからどこかに隠しておくと思います。
Posted by Rie at 2008年01月15日 16:11
>>Rieさん

私も、「人のものを勝手に自分の価値観で査定して捨てる」ことは言語道断だと思います。そういう自他のけじめをつけた認識は、夫婦だからこそ大事だと。
この話の場合、「勝手に捨てた」わけではないんですが、「捨てちゃう」仕打ちの方がまだマシのように思えるんですよね…
この方の場合は、思い入れや思い出そのものを込みで、しかも「自分で(本だけでなくその周辺のメンタルそのものを)捨てろ」と強制されたうえ、事実上「捨てない」という選択肢がないという仕打ちはあまりにも酷だと思ってこのエントリを書きました。
結婚するにあたって、価値観がすべて一致する必要などないし実際無理なわけですが、自分が大事にしているジャンルへの理解と受容が相手にあるかをある程度見極めないと、お互い辛いことが多いんじゃないかと今更ながら思いました。
Posted by 大道寺零 at 2008年01月16日 00:09
私は冷蔵庫の中の物も確認してからじゃないと捨てられません。こういうことをする人はジャンルは関係なくやる気がします。物じゃなくてもあの人とは付き合うなとか言いそうだし…
この奥さんの場合「気に入らない」「つまらないから」捨てろと言ってるんですよね、たぶん。「初めて読んだけどこんな酷い本はない。」というのが全てなんじゃないかなと。

私も付き合ってる人の性格に納得いかないと思う所はたくさんあるんだけど、まあそこがあの人のいい所だから仕方がないと最終的には思ってしまうから、性格を否定して見捨ててないと言えるのかな?奥さんは本当にこの人のこと好きなのかな?と疑問に思ってしまうんですよね。
Posted by Rie at 2008年01月16日 09:25
>>Rieさん

私は現在、夫の家族と同居していて、完全2世帯タイプではなく、台所もお風呂も同一にしています。こういう生活の中では、Rieさんのおっしゃる通り、冷蔵庫の中の食材やちょっとしたもの、「明らかにこれはゴミ」「どう見ても腐ってる」というようなブツでも、使うときや処分する際には必ず相互確認を取ることが大事だと痛感し、それぞれがそれなりに気を配ってできるようになりました(まあお互いに多少時間はかかりました)。義父が異様にモノを捨てず、傍から見て「絶対買いなおした方が安い」場合でも直して使う人なので自然とそうなったのですが…
家族も夫婦も、「他人じゃない」けれどもれっきとした「他者」であって、「他者と末永く、楽しく暮らす」ために一番大事なことだと最近では思っています。

>物じゃなくてもあの人とは付き合うなとか言いそうだし…

私もちょうど、「愛読書や愛着のあるモノを否定されたり、独断で廃棄する」というのは、「古くからの大事な友人について、"あんなうだつが上がらない人と付き合ってたらあなたまで負け組になる"と否定する」ことと似ているのではないか?と思っていたところでした。
恐らく、イライラした状態の奥さんの目の前にあるのが「男おいどん」ではなく、たまたま無職だったり低所得状態の友人だった場合には、同様の矛先がそちらに向いたんじゃないでしょうか。

>この奥さんの場合「気に入らない」「つまらないから」捨てろと言ってるんですよね、たぶん

少なくとも実際にそういう理由で本を捨てた「前科」はありますね。この場合は、「夫のうつの犯人探し」「治ってほしい」というような要素が色々絡んではいるのだと思いますが(ゆえに色々ややこしいのだろうと)。

>奥さんは本当にこの人のこと好きなのかな?と疑問に思ってしまうんですよね。

こればっかりは実際に両者に会って話でもしない限り判断できませんが、丸っきり見捨てたり突き放していたならば、こういう反応もない(例えば、診断が下ったらすぐ黙って実家に帰ったり)んじゃないかと。立ち直ってほしい、自分が一番好きだった夫の姿に戻ってほしいという気持ちは強くあるんでしょう。だから「好きか好きじゃないか」でいえばまだ「愛はある」んでしょうね。ただ、長く連れ添えば連れ添うほど、相手に対する愛情と自己愛と執着が自分でも見わけがつかなくなることはよくある話で、そういう状況にあって、「適切でない方向にキレた(自分の望む姿ではない夫を否定する)」例ではないかと感じています。

まあ同じ方のブログを拝見すると、この話題をその後引きずってはいない(色々考えた末かもしれませんが)ので、「本を捨てる」というご自身の決断に納得されているようなので、もう他者があれこれ言うべきことではないんでしょうね。

ただこのエントリには、テーマが夫婦や恋人、自他関係コミュニケーションというわりと普遍的な、しかも日常的な問題を含みとても強力な内容なので、今後、「鉄道模型夫」のように、典型トラブルの一つとして独り歩きして語られる可能性のある話題だろうと思いました。
Posted by 大道寺零 at 2008年01月16日 13:58
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