2009年08月20日

巡る日流産とその後

天国の子供たちへの私信です。

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posted by 大道寺零(管理人) at 22:35 | Comment(5) | TrackBack(0) | 流産とその後

2008年08月20日

2回目の命日流産とその後

永二とふたばの2回目の命日。あの8月20日から2年が経った。
格別のことをするでもなく、小さなお菓子を買ってきてお供えして、気持ちを込めて線香をあげた。
あれからとくに実りと呼べるようなこともなく、ただ「お父ちゃんとお母ちゃんは仲良く過ごしてますよ」という他に報告できることもないのだった。
夕食の前に鳴らしたリンの音を聞いて、
「今日はめんご子ちゃんたちの命日だったね」
と義母が言って手を合わせてくれたようだった。それだけで十分にうれしく思う。
posted by 大道寺零(管理人) at 22:39 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流産とその後

2008年05月04日

端午の節句・二度目流産とその後

この前、母と一緒に見てきた傘福に触発されて、初めてちりめん細工を作ってみた。
フェルト細工は昔随分作ったのだけど、和布細工はまたけっこう難しかった…
その上、細い組みひもがなく、3mm幅の細ロープで代用したらやっぱり全然見栄えがしない…
真鯉のほうは2mm組みひもなのでまだだいぶ見た目がマシなのだが、本では1mm組みひも使用なんだよなあ…

koi.jpg


一応、成美堂出版の「和布の小物 傘福・つるし飾り・さがりもの」を参考に作ったのだけども、なんかもう色々別物。
作りなれていないせいもあるのだが、口べり布の最後の処理(くけるのかどうか)などがよく分からずに適当に処理してしまったため、「近くで見ないでー!イヤー!」なことに。
全部の布に接着芯を貼ってしまったのだが、口べりは付けない方がよかったような悪寒…

ともあれ、昨日と今日昼でなんとか形だけはつけたので、早速仏壇にあげて参りました。


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posted by 大道寺零(管理人) at 20:20 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年09月22日

日暮れて道遠し流産とその後

長らくご無沙汰&レスもせずにおりました。数人の方からはご心配のメッセージ等もいただきました。お気遣いありがとうございます。

できれば久々の記事はこのカテゴリでなく書きたかったのですが、8月より不妊治療に再度チャレンジし、「永ニとふたばの同輩たちをお腹に迎えに行って」みたのですが、結果は玉砕に終わってしまいました。
先月下旬よりの記事を書かなかったのは、胚移植後安静生活を徹底し、PCにもほとんど触っていなかったためです。PHSからの更新もできたのですが、単に「体調不良」と書くのもどんなもんかと迷っているうちに結局はこういう結果になってしまった次第です。

現在は私の体調自体には大過なく、家事にも復帰し普通に生活しております。

(以下経過などを簡単にまとめますが、興味のない方や「もらいヘコみ」したくない方は飛ばしていただいて結構です)



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posted by 大道寺零(管理人) at 01:58 | Comment(6) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年08月20日

Birthday流産とその後

正確には産声を上げていないのだけど、今日が息子・永ニと娘・ふたばの誕生日にして命日なのでありました。
役所に出した出生届も母子手帳も今日が誕生日になっているのだから誕生日でいいのだ。多分。
相方が花と子供用のお菓子を買ってきてくれて、それを仏壇に供え、お線香とロウソクという形になってしまったのはちょっと寂しすぎたかもしれないけれど、親子四人でこの日を迎えました。(思えばケーキにしたほうが良かったのか?まああまり無理に明るくするとかえって家族が痛々しい思いをすると思うので普通に…)

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posted by 大道寺零(管理人) at 22:06 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年08月14日

新盆流産とその後

例年13日の墓参を済ませました。
一般にお盆というと「長男家の嫁は接待や準備で大変」なお家が多いと思いますが、うちは長男家とはいえ、義父の兄弟が少ないこともあり、毎年さほど客が来るわけでもなくきわめて簡素な盆なのです。
が、昨年は祖母が大往生して新盆ということもあり、例年になく来客の多い日で、さすが新盆と実感しました。

もちろん祖母だけでなく、我が子永ニとふたばの新盆でもあります(1週間経てば命日です)。
毎年菩提寺の和尚さんが来て仏壇でお経を上げてくださるのですが、その件について、義母のほうから事前に「少しお布施をいつもより多くして、子供たちの分もお経を上げていただくことにしようか?」と提案してくれたのがとても嬉しく思われました。
やはり私と相方以外の人が、折に触れて「私たちの息子と娘」と認めてくれて、それを言葉にしてくれるということは単純に嬉しく、心に沁みることで、とても有り難いことです。

朝イチで出かける用事+買い物があったのですが、読経に間に合うように帰宅して同席することが出来てよかったです。

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posted by 大道寺零(管理人) at 00:41 | Comment(4) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年05月05日

初節句その2流産とその後

永二の五月人形ひな祭りの時と同様、「永二の五月人形」として小さい人形を買い、少し前から飾っています。
他に小さな鯉のぼりを窓に貼り、仏壇には「こどもの日バージョンキャラメルコーン」をお供えしていました。


菖蒲今日は柏餅を買ってきました。夕食後に食べる予定。菖蒲を仏壇と私達の部屋に飾って、夜は菖蒲湯につかります。
菖蒲の花、なかなか売っておらず、スーパーやら花屋やらをハシゴして、ようやくト一屋で花と葉をゲット(まあまあしっかりした花で、価格も良心的でよかった…)。

夕食は家族の大好物焼きビーフンと山菜のおひたし。
……ちょっと普通すぎたか……;

このエントリーをアップしたら、今日はBlogは更新しません。
ただ静かに今日の日を終えることが出来ればと思っています。


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posted by 大道寺零(管理人) at 17:51 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年04月23日

藁にすがるエゴイストの感情論流産とその後

天漢日乗」は、私がほぼ毎日読みに行くBlogの一つだ。
話題は多岐に渡っており、どの記事も読み応えがあって面白い。
サイトマスターが特に力を注いでいる話題のうちに、「周産期医療の現状、それを理解・評価しようとしない行政への批判」「産科不足に拍車をかけるマスコミ報道の誤った方向性」がある。最近は裁判の経過なども詳細に追跡されており、力が入っているなと感じる。
その論旨には同意させられるところが多い。

しかし今日読んだ記事は、不妊治療を受けた(これからも受ける)患者として、その末に双子を妊娠して失った人間として、そして公立病院に緊急搬送されてICUに入った者として、少なからず凹むところの多い内容だった。

<注:>
これから追記部分に書く内容は、上記三点にあてはまる人間の、単なる感情論であり、「批評」の域に達しない「感想」です。基本的に「チラシの裏」ってやつです。
なにかの検索のはずみでこの文章を見てしまった「天漢日乗」ファンの方には不愉快な感想を催させる可能性がありますのでご注意ください。
また、現在不妊治療中、治療経験者の方は恐らく大なり小なり凹む内容(恐らくは引用先ではなく私の地の文によって)を含みますのでそちらもご注意ください。

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posted by 大道寺零(管理人) at 04:16 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年03月09日

夢を見せない機械がほしい流産とその後

自分以外には興味も沸くはずのない夢の話&ネガティブな一人語りです…

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posted by 大道寺零(管理人) at 15:55 | Comment(5) | TrackBack(0) | 流産とその後

2007年03月03日

桃の節句流産とその後

傍から見ていて多分いろいろな意味で痛いかもしれないけれども、とにもかくにも亡き娘・ふたばの初節句なのでありました。

安いものですが(まあさすがにダイソーではないけど)、ミニ内裏飾りを買って、桃の花と共に飾りました。
ふたばの雛人形
豆雛は、学生時代に京都で買って毎年飾っているものがあるのですが、やはり二度とない初節句、「ふたばの」お人形を買ってあげたくて相方と選びました。
この手のミニ飾りも色々なものがあるのですが、あえて「双子っぽくていいな」という相方の声と、可愛らしい第一印象に惹かれて、お内裏様とお雛様の顔がほとんど同じこれを選んでみました。

珍しくBlogのテンプレを変えてみたのも同じような理由であります。



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posted by 大道寺零(管理人) at 20:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年10月29日

中絶に含まれるもの流産とその後

「人工妊娠中絶」という言葉を聞いて、どのような印象を抱かれるでしょうか。
恐らく、ポジティブなイメージを浮かべる人はまずいないでしょう。
「無責任」「快楽のみに走った結果」「避妊放棄(失敗)」「責任も取れない状況でありながら無分別な行動」などの言葉も同時に浮んでくることと思います。

確かに、そうした無責任行動の結果としての中絶が、若年層を中心に増えているのも事実です。
しかし、「人工妊娠中絶」の数の中に、実質的に「流産」「死産」という、「待ち望んだにも関わらず赤ちゃんを失ってしまった」ケースが含まれていることをご存知の方は、案外少ないのではないでしょうか。

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posted by 大道寺零(管理人) at 01:00 | Comment(13) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年10月09日

納骨の日流産とその後

手術の後、私は自分が生きていることが悔やまれて仕方なく、

「あの世で小さい赤ちゃん二人だけで、誰も知ってる人も可愛がってくれる人も、食べ物をくれる人もいない。私がおっぱいあげなくては」

と泣いてばかりいるものだから、母は付き添いの合間家に帰った折に、自分の実家に帰ってくれたのでした。そして次の日また病院に来てくれて、

「仏壇でばあちゃんに『永二とふたばをよろしくね』って伝えてきたからね。大丈夫だよ。」

と言ってくれたのでした。
ふたばはあまりに私にそっくりなので、きっとばあちゃんはすぐに私の子供だと分かってくれるだろう…と思うことが出来たのでした。

私の実家は父が初代なので、仏壇というものがない家でずっと育ちました。幼い頃、時折母の実家に泊まるときは大抵仏間に寝ることが多く、写真ではなく細密画で描かれた遺影はなんだか妙な雰囲気で、「なんだか怖い場所」というイメージが強かったのですが、ここにきて「仏壇っていいものかも」と思えるようになりました。
仏壇に向かえば、いつでも亡くなった人と対話ができるのです。
いや、それは本当は嘘で、「対話しているような気持ちになれる」「一方的に話をしている」だけなのです。それでも、「伝わらないかもしれない思いを強く抱くことができる」装置であることは確かなのでしょう。
そんな風にして、実家から帰ってからの1ヶ月近くを仏壇に向かいながら過ごしてきました。


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posted by 大道寺零(管理人) at 23:30 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年10月08日

四十九日流産とその後

今日が双子たちの四十九日でした。
明日は身内だけで納骨を行います。実家から帰って3週間ほど同じ屋根の下で過ごし、毎日お線香やお供えの菓子をあげたり、私たちの部屋にも「偲ぶスペース」を作ってお花を飾ったりしましたが、それも今日が最後です。

明日の納骨のための花やお菓子などをあれこれと準備しました。
今日は別件で帰省していた義弟の歓迎もこめて、7月に仕込んだ梅酒を開けて試飲会。まだまだお酒は早いけれど、ちょっとだけと思い仏壇に供えました。

ここのところ東北の天気は荒れていますが、明日はどうにか雨だけでも収まってほしいものです。強すぎる嵐に手折られてしまった二人のためにも。

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posted by 大道寺零(管理人) at 23:16 | Comment(4) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年09月20日

一ヶ月検診流産とその後

死産・人工流産とはいえ一応「お産」したことになるもんで、一ヶ月検診がある。これ意外でしょう。
というか、私もこんなトリビア一生知らんでよかったorz。
というわけで朝、ふたばを帝王切開して入院のお世話になったS総合病院へ車で向かう。
本当は、退院検診のとき、主治医から「できればお家の人に乗せて来てもらって」と言われたのだが、相方も出張で都合がつかず、私の体調もまずまずなので一人で運転していった。

運転はまあまあ普通にできていたと思うのだが、朝出かける準備をしながら、母子手帳(書いてある内容がすこぶる少ないのが悲しい)を眺めたり、誕生祝の包みにに入っていた母からの手紙(妊娠を心から祝ってくれた内容)を読んじゃったり、「これが母親として医者に行く最後の仕事なんだな」とか思っちゃったりしたら、行きも帰りも社内で泣けてきてしまって、もしかしたら主治医の指示には、「そういう意味で危ないから」というのもあったのかもしれない。続きを読む
posted by 大道寺零(管理人) at 22:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年09月02日

数え年流産とその後

死産翌日、菩提寺の住職さんに自宅に来ていただき、供養をしていただきました。
私は依然としてICUに入っており、同席できなかったことは先日書いたとおりでしたが、その時住職さんにしていただいたお話を、母から聞きました。

仏教では基本的に「数え」で年を数えますが、その理由は

「仏教の教義では、人間の命は、母胎内に生まれたときに『誕生』とみなし、そこからカウントする。だから『胎内から産まれ出た時に1歳』として数える。

からであり、

「今は通常、満年齢で数えるので、『(0歳)*ヶ月』と言うけれども、それは母の胎内で懸命に生きて育った赤ちゃんに失礼な話なのです。仏教では生まれた赤ちゃんを『0歳』とすることはないのですよ」

ということだ、という趣旨だったそうです。

通常、社会では「生きた子供と共にいない夫婦」は当然「親」とは見なされません。この話を聞いて、たった5ヶ月の短い日々であっても私たち4人は「親子」であり、永二とふたばは「人間」であり、私たちを「親」にしてくれた「子供」なのだと住職さんに認めてもらえた気がして、少し救われたように思えました。

現代社会では、七五三や厄年、その他還暦や喜寿などの年祝いなどを除いては、忘れられかけた「旧癖」としかとらえられない「数え年」は、実は喪失感にさいなまれた、子供を亡くした親たちの心をしばし慰めてくれるシステムでもあったのだと、この憂き目の中で初めて気付いたのでした。
posted by 大道寺零(管理人) at 15:33 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流産とその後

実家に帰らせていただきます流産とその後

いや、別に不穏当な展開があったわけではなく、単にしばらく、心置きなく上げ膳据え膳で療養してこようという予定であります。1ヶ月検診前くらいまでゆっくりし、納骨は帰宅後に行う予定です。
実際のところ、相方のダメージと、私の入院中に通ってくれた通院疲れも相当なものなので非常に気がかりではあるのですが…毎日鬱で泣いてばかりの私がいても、かえって辛い思いと心配をかけるかもしれませんし…
仏壇にいる永二とふたばとはまたしばらくお別れになってしまうのも心残りではあるのですが。

退院し、義父や義母も私を労わり、心配してくれているのはとてもよく分かるのですが、どうしても「出産トラブル経験のない」彼らが私を元気付けよう、前向きになってほしいと思って言ってくれる言葉のあちこちが、心に突き刺さってくることもままあり。結局この場にいない方が、双方気を使ったり、不要のダメージを受けたりすることなくすむのかもしれないと思ったり。義母も快く実家療養に賛同してくれたので、素直に感謝しています。
我ながら、「何を言われても落ち込んだりダメージを受けるばかりの状態なのだろうな」と思います。

結局今の私は、母と話している時が、もっとも率直で乱れずにいられるような気がするので、しばらく帰ることにしました。一人になって娘と息子を思いながら泣く時間も、私にとって大切なものではあるのですが、まあその辺は意識しなくとも寝床に入ればやってくるでしょう。
実家でもネットは使えるので、回復状況を見ながら、mixiやBlogをやっていく予定です。
posted by 大道寺零(管理人) at 12:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | 流産とその後

2006年08月31日

長いお別れ流産とその後

去る8月20日、私たちは待望の双子と悲しいお別れをしました。
21週2日の小さな娘と息子は、驚くほど私たち夫婦にそっくりでした。
息子(26cm 400g)には「永二」、娘(26cm 360g)には「ふたば」という名前を付けました。臨月になってからゆっくり考える筈の名付けを、あまりにも早く行うことになりました。

入院時、既に子宮口が開き、息子の胎胞が出てきていました。その後破水・出血の後、胎児自身も下り始め、「できるだけ息子を自然に外に出し、まだ破水していない娘をできるだけ温存し、受け入れてもらえる23wになったらNICUのある病院に転院する」という方針が固まりました。
20日未明、息子の脱出スピードが早まり、子宮収縮痛(小さな陣痛)が始まり、朝6時過ぎにLDRに入るとすぐに死産しました。エコー画像に写る娘は元気に生きており、息子は残念だったけれども、臍の緒の処理をしてもらい一安心…の筈でした。
しかし残した息子の胎盤からの出血と収縮痛が止まらず、急遽後日店員予定だった基幹病院の救急部門へと、救急車で搬送されました。
搬送先で点滴・処置・輸血を受けましたがそれでも出血は止まらず、出血量が2.5リットルに達する頃、「このままでは母子ともに死に至ります。母体を救うために帝王切開で第二子を摘出するしかありません」というまさかの決定が下りました。週数の足りていない娘は、まだ肺が完成しておらず、生きて生まれることはできません。なんとか助けたいと懇願しましたが、出血は止まらず、血圧は上が60台に突入する有様では、泣きながら同意書にサインをするほかありませんでした。
結局手術終了までに3.3リットルの血(羊水なども含まれますが)を失い、1.8リットルの輸血を受けたそうです。

一日のうちに、別々のシチュエーション・別々の場所で、かなり壮絶な死産体験をし、私の短い母親生活は終わってしまいました。特に娘に関しては、「自分が生きるために殺してしまった」という償えない自責の念、「子供たちだけで逝かせてしまった」後悔の念が強く残っています。

当日は術後ICUに運ばれ、麻酔の名残と切開後の痛みの中、ただ泣きながら夜を過ごしました。
2人の遺体は翌日まとめられ、赤ちゃん用の小さな棺に二人寄り添うように納められて、服を着せ、お菓子やおもちゃや花とともに斎場で火葬されました。その間も私はICUにおり、ただひたすらに涙を流して二人を思うことしかできませんでした。

今日ようやく退院し、初めて遺骨と対面することができました。
流産の原因である感染症が予想よりずっと強く、なかなか熱が下がらずに退院が少し延びましたが、傷の治りなどは良好だそうです。大量失血・輸血のため、まだ貧血があります。一応「お産」をしたことにはなるので、悪露などもあり、赤ちゃんがいないのに「産褥のケア」だけは一丁前にすることになり、気分的に辛いところです。
帝王切開のため、次回の妊娠までには最低1年を待たなければならないのも、私たちにはきついものがあります。心と体の「赤ちゃんを亡くした」認識がチグハグで、いまだパニックの中にいるのが分かりますが、しばし自宅や実家で休み、早く体を元に戻したいと思っています。

たくさんの方に祝福と励ましをいただきながら、辛い報告をすることになってしまいました。入院中にもコメントをいただきまして、本当にありがとうございました。
私たちにとって、「子宝」を授かることは思った以上に遠く厳しい夢なのかもしれません。今はただ、あらゆる悔恨ばかりが体中に渦巻いています。
心身が落ち着いたら、「自分のため」だけでしかない独りよがりな文章になることでしょうが、「二人が確かに私のお腹の中にいた」ことを残すため、この死産の体験を綴ろうと思っております。
posted by 大道寺零(管理人) at 19:06 | Comment(22) | TrackBack(0) | 流産とその後